アメリカの小学生が学ぶアメリカの歴史-アメリカの発見~植民地時代

アメリカの歴史1世界の歴史

アメリカの歴史をアメリカ目線で見るために、アメリカの小学生が学んでいる歴史を参考に解説します。
日本の小学生に分かるように、なるべく簡単な文章で記載していますが、大人も十分学べる内容になっています。

アメリカは日本と違って、自治体や学校ごとに教科書が異なるため見方は様々あるのですが、ここでは日本で手に入る日本語の書籍「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書.ジャパンブック」を参考に構成しながら、他の資料等により肉付けしています。

他国を理解するには、その国の人の歴史観を知ることが大事だと思います。

アメリカ合衆国地図
User:Wapcaplet, edited by User:Ed g2s, User:Dbenbenn, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

名称:アメリカ合衆国
首都:ワシントンD.C.
人口:約3億3,200万人(2021年米統計局推計)
面積:9,833,517㎢
通貨:米ドル
政体:大統領制、連邦制
実質GDP:18兆4,226億ドル(2020年)
在留邦人:429,889人(2020年10月現在)

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アメリカ発見~植民地時代

年表
  • ~約1.2万年前
    アメリカ・インディアンの祖先がアメリカ大陸にやってくる
  • 1492
    クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達
  • 1607
    ジェームズタウン(ヴァージニア植民地)建設

    最初のイギリス植民地ができる

  • 1620
    イギリス第2の植民地プリマス建設

    ピルグリムがメイフラワー号でマサチューセッツに入植

  • 1754-1763
    フレンチ・インディアン戦争

    1763年のパリ条約で、フランスは北アメリカの大部分をイギリスに割譲

  • 1773
    ボストン茶会事件

    植民地人の急進派がイギリス議会への抗議として停泊中の船舶から茶箱を海に大量投棄した事件が起こる

  • 1775-1783
    アメリカ独立戦争

アメリカ・インディアン

コロンブスがアメリカ大陸を発見する前から、アメリカ大陸には人々が住んでいました。この人々を「アメリカ・インディアン」と呼びます。ネイティブ・アメリカンとも呼ばれます。

アメリカ・インディアンは、その昔まだアラスカがユーラシア大陸と繋がっていた時期にアジアからやって来ました。約1万2000年以上前の旧石器時代の話です。

彼らは、北米から南米に至るまで様々な土地で生活するようになり、アメリカでも各地で集落や都市を形成していき、ミシシッピ文化などの遺跡が発見されています。

ヨーロッパからの入植

アメリカ大陸は数千年もの間、ヨーロッパ人に見つけられることはありませんでした。

1492年、クリストファー・コロンブスは、スペインのイサベラ女王とフェルディナンド王の命で「インディーズ」と呼ばれるアジアの地の胡椒と香辛料を求めて出港します。

アジアに向かって航海した船がアメリカ大陸に到達したのですが、初めはそこが「インディーズ」だと思っていたため、アメリカの先住民を「インディアン」と呼びました。

クリストファー・コロンブス(1451年ごろ-1506年)

クリストファー・コロンブスの肖像

探検家、航海者、奴隷商人
『東方見聞録』に惹かれて西廻りでアジアに向かう計画をスペイン王室に提案
1492年8月スペインを出港
同年10月にサン・サルバドル島に上陸
帰国後盛大に称賛されたが、アメリカでは原住民の虐殺と搾取を行っている
生涯4度のアメリカ航海を行う
Picture:Ridolfo del Ghirlandaio, Public domain, via Wikimedia Commons

コロンブスの後、多くのスペイン人が南北アメリカにやっていきます。彼らは銃や馬を使いインディアンを武力で圧倒します。また、スペイン人が大陸に持ち込んだ天然痘で多くのインディアンが死んだとされています。

スペインの新大陸発見は、ヨーロッパ各国の進出を引き起こします。イギリス、フランス、オランダなどが競って新大陸に植民地を建設していきました。

植民地
スペインフロリダ、ニューメキシコ、テキサス、フロリダなど
イギリスノースカロライナ、ヴァージニア、ニューイングランド、ハドソン湾沿岸、カナダ内陸部など
フランスケベック、セントローレンス川流域、五大湖周辺、ミシシッピ川流域など
オランダハドソン川流域、マンハッタン島など
スウェーデンウィルミントン、デラウェア川河口など
ロシアアラスカからカリフォルニア中部
ヨーロッパ各国のアメリカ大陸入植:「アメリカの歴史を知るための65章【第4版】」.明石書店を参考に筆者作成

初期の入植者たちは、マラリアや食糧不足などによって多くが命を落とします。それでもアメリカへの入植者は後を絶ちません。

はじめは一攫千金を狙った植民でしたが、イギリスでの弾圧を受けていた宗教家たちが、自分たちの土地を求めてアメリカに渡ります。ピルグリムたちの清教徒です。

メイフラワー号
メイフラワー号:William Halsall, Public domain, via Wikimedia Commons

ピルグリム・ファーザーズメイフラワー号でイギリスを出港し、マサチューセッツのニュー・プリマスへ入植します。その後も清教徒が多く海を渡り、新しい植民地が次々と建設され、後のニューイングランドへと発展していきます。

清教徒はすべての人が聖書を読めるように、コミュニティーに小学校を建て、聖職者を目指す若者のために、1636年アメリカで最初の大学、ハーバードを設立しました。

植民地拡大から独立戦争まで

植民地の拡大

やがて現在のニューイングランド地方に多くの植民地が誕生します。

これらの土地では、信仰の自由が認められ、イギリス人だけでなく多くの国の人々が移住してきます。

彼らの生活や産業を支えるため、多くのアフリカ人が連れてこられます。最初のアフリカ人たちは、年季奉公労働者だったと考えられていますが、やがて「アフリカ人は所有者のために一生働かなくてはならない」という法律が制定され、これ以降アフリカ人は奴隷として連れてこられることになります。

その後も植民地は拡大し、1763年には13のイギリス植民地に約200万人の人口を有するようになります。フィラデルフィアは、1775年には、イギリス帝国内でロンドンに次ぐ2番目の都市になっています。

アメリカ独立時の13州
Original JPEG: Educar ChileSVG edit: PatoBurgues, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
植民地名沿革
ニューハンプシャー1679年、マサチューセッツ湾植民地より分離
マサチューセッツ1629年、マサチューセッツ湾会社により設立
1691年、プリマス植民地(1620年設立)を併合
ロードアイランド1636年、ロジャー・ウィリアムスにより設立
コネティカット1636年、トマス・フーカーにより設立
ニューヨーク1664年、ヨーク公(ジェームズ2世)
ニュージャージー1664年、ジョン・バークレー、ジョージ・カータレットにより設立
ペンシルベニア1681年、ウィリアム・ペン(クエーカー教徒)により設立
デラウェア1703年、ペンシルベニア植民地より分離
メリーランド1634年、ボルティモア卿により設立
ヴァージニア1607年、ヴァージニア会社により設立
ノースカロライナ1663年、クラレンドン卿ら8人の貴族により設立
1729年、南北に分離
サウスカロライナ
ジョージア1733年、オーグルソープにより設立
「13植民地」:ウィキペディアより筆者が作成

1754年から1763年には、イギリス領アメリカ植民地とヌーベルフランスとの間で「フレンチ・インディアン戦争」が起こります。

これまでもイギリスとフランスは何度も戦争(アン女王戦争など)を行っていましたが、今回の戦争がアメリカにおけるイギリスとフランスの最後の戦争になります。

この戦争では、イギリスVSフランス・スペインという本国を巻き込む大きな戦争となります。また、両陣営ともインディアンの複数の部族と同盟を結び、ヨーロッパ人とインディアンがお互いに戦う戦争になります。

当初はイギリス側が劣勢でしたが、イギリスが増援したことにより形成が逆転し、フランスが支配するケベックやモントリオールまで攻略しました。

この戦争の結果1763年パリ条約において、イギリスはカナダとルイジアナ東半分のフランス領を奪い、スペインからフロリダを割譲し、北アメリカ東側の支配を固めました。

1750年当時の北アメリカと各国の勢力図

1750年当時の北アメリカと各国の勢力図
ピンク・紫=イギリス領
青=フランス領
橙=スペイン領
Picture:Pinpin, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

フレンチ・インディアン戦争の後の領土変化

フレンチ・インディアン戦争の後の領土変化
元々のイギリス領(赤)からピンクのエリアに拡大した
Picture:Jon Platek, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

アメリカ独立への流れ

フレンチ・インディアン戦争で多くの戦費を出費したイギリスは、植民地に対して新たな税を次々と課していきます。これらに植民地の人々は、イギリスへの反発を強めていきました。

1763年から1775年の時期は、アメリカ独立への導火線となる出来事が沢山起こります。

イギリス本国は、先の戦争の借金と拡大した植民地の防衛のため増員した軍隊の駐留費を賄うために、砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)、タウンゼンド諸法(1767年)などを成立させ、植民地の税負担を増大させます。

これに対しアメリカの植民地では、イギリス本国に対する抵抗運動が各地に広がっていきます。

1773年、イギリス議会はイギリス東インド会社に植民地での茶葉販売独占権を与える法律を制定します。

これに反発したボストン市民は、インディアンを装って茶葉を運んできた船に潜入し、茶箱をボストン港に投げ込む事件を起こします。(ボストン茶会事件

ボストン茶会事件のリトグラフ
「ボストン茶会事件を描いたリトグラフ」Cornischong at lb.wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons

これに対してイギリスは茶葉の代金の賠償を求めボストン港を閉鎖します。同時にマサチューセッツの他の権利をいくつかはく奪するという報復(「耐え難き諸法」と言われる)を行い、事態はエスカレートしていきました。

こうしたイギリス本国の態度に、13の植民地は自治意識が高まり、イギリスと対抗するようになっていきます。有名な「代表なくして課税なし」という呼びかけが植民地を駆け抜けました。

1774年、各植民地の代表(12植民地が代表を送った)が集まり、第1回大陸会議が開催されます。

この会議では、以下の重要な事項を決めます。

  • イギリス製品をボイコットする
  • 「耐え難き諸法」が撤回されなければ、イギリスへの輸出を止める

これらのボイコット自体は成功しましたが、植民地とイギリス本国の対立は深刻なものとなり、この後1775年アメリカ独立戦争へと突入することになります。

耐え難き諸法
イギリスの北アメリカ植民地に関して、1774年にイギリスの議会で成立した一連の法律を呼ぶために付けられた名前である。これらの法で13植民地の怒りと抵抗を刺激し、アメリカ合衆国の独立に発展する重要な契機になった。

第二次宿舎法(1774年)、ケベック法(1774年)、マサチューセッツ統治法(1774年)、裁判権法(1774年)、ボストン港法(1774年)

「耐え難き諸法」ウィキペディア

まとめ

今回は、アメリカ大陸の発見から植民地時代を中心に書きました。

冒頭でも書いた通り、アメリカの小学生向けの歴史教科書をベースにしています。それが原因かわかりませんが、ヨーロッパ人とインディアンとの争いについては、あまり詳しい記述がありませんでした。フレンチ・インディアン戦争も3行しか記載がなかったので、他の資料を参考に追記したほどです。

一方で、イギリス本国との関係が話の中心に据えられていて、この後の独立戦争、南北戦争に多くの紙面が割かれています。

あくまでも「その国の人が学んでいる歴史」というコンセプトなので、追記が多いと趣旨に反するのですが、多少記載しないと流れが分からないということもあり、その辺の塩梅が難しいところです。

もし興味を持たれたら、ご自身でも読んでみてください。

参考文献

James M.Vardaman,Jr、村田薫(編).「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」.ジャパンブック,2005
富田虎男、鵜月裕典、佐藤円(編著).「アメリカの歴史を知るための65章【第4版】」.明石書店,2022
「アメリカ合衆国基礎データ」.外務省https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/data.html(参照2023-01-16)
ウィキペディア.「アメリカ合衆国の歴史」(参照2023-01-17)
ウィキペディア.「アメリカ合衆国領土の変遷」(参照2023-01-17)

ウィキペディア「アメリカ合衆国の植民地時代」(参照2023-01-17)
ウィキペディア「耐え難き諸法」(参照2023-01-17)

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