アメリカの歴史をアメリカ目線で見るために、アメリカの小学生が学んでいる歴史を参考に解説します。
日本の小学生に分かるように、なるべく簡単な文章で記載していますが、大人も十分学べる内容になっています。他国を理解するには、その国の人の歴史観を知ることが大事だと思います。
アメリカ発見~植民地時代 ~1775年
独立戦争と新国家建設時代 1775年~1800年代
南北戦争と南部再建時代 1800年代
西部開拓時代 1800年代頃
第一次世界大戦と大恐慌時代 1900年頃~1939年
第二次世界大戦と冷戦時代 1939年~1990年
冷戦後の新時代のアメリカ 1990年~
アメリカの独立 1775年~1783年
- 1775年4月レキシントン・コンコードの戦い
独立戦争が始まる
- 6月第2回大陸会議
ジョージ・ワシントンが大陸軍総司令官に任命される
- 1776年7月独立宣言が採択される
独立宣言が採択された7月4日が独立記念日になる
- 1776年の主な出来事
8月:ロングアイランドの戦い:イギリス勝利
12月:トレントンの戦い:アメリカ勝利 - 1777年1777年の主な出来事
1月:プリンストンの戦い:アメリカ勝利
9月:ブランディワインの戦い:イギリス勝利
9月:第一次サラトガの戦い
10月:第二次サラトガの戦い:アメリカ勝利 - 1778年1778年の主な出来事
2月:フランスがアメリカと同盟して参戦する
6月:モンマスの戦い - 1780年1780年の主な出来事
8月:キャムデンの戦い:イギリス勝利
10月:キングスマウンテンの戦い:アメリカ勝利 - 1781年1781年の主な出来事
9月:チェサピーク湾の海戦:フランス艦隊がイギリス艦隊を破る
10月:ヨークタウンの戦い:アメリカ勝利、事実上アメリカの勝利が確定 - 1782年4月イギリス議会が停戦を決議する
- 1783年9月パリ講和条約が締結される
その後イギリス軍はアメリカから撤退
独立戦争の始まり
1774年9月に第1次大陸会議が開かれて以降、植民地同士の連携と自治意識が急速に高まると、イギリス本国による統治機構と植民地による統治機構という二つの権力機構が並び立つ状況になります。
1775年4月、イギリス側は植民地側の武器を取り上げるため、コンコードに軍を派遣します。これに対して植民地の民兵はイギリス軍を攻撃します。レキシントンではミニットマン(数分(ミニッツ)で戦う準備ができることからこう呼ばれる)たちが戦いました。(レキシントン・コンコードの戦い)
この戦い以降の植民地の人たちは、「もはやイギリス人ではなくアメリカ人と考えることができるでしょう」とジェームス・M・バーダマンは記しています。
この戦いの後、2回目の大陸会議が開かれ、ジョージ・ワシントンが大陸軍総司令官に指名され、ボストンに派遣されます。
このとき「大陸軍」とは名ばかりで、実態は各地域の民兵の集まりでした。当然装備は脆弱で練度も低く、本来なら正規軍に太刀打ちできない者でした。
戦場は拡大し、カナダやサウスカロライナでも戦闘が起こります。大陸軍は、多くの戦いで勝ったり負けたりしながら戦闘を続けました。
この頃、トマス・ペインは「コモン・センス」という小冊子の中で、「イギリスのような小さな国が北アメリカのような大陸を所有することがいかにばかげていることか」と指摘します。
「この冊子を読んだ者たちは、アメリカには君主はいらない、本国イギリスとのつながりを断つべきであると確信するに至った。」(若い読者のためのアメリカ史.すばる舎,P130)と言われています。
ジョージ・ワシントン
軍人、政治家(1732年-1799年)
初代大陸軍司令官
初代アメリカ大統領
アメリカ合衆国建国の父のひとりとされている
Picture:Gilbert Stuart, Public domain, via Wikimedia Commons
独立宣言
第2回大陸会議ではバージニアの代表(リチャード・ヘンリー・リー)からアメリカの独立を訴えられ、それを受けてトーマス・ジェファソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズら(独立宣言起草委員会)が独立宣言を作成します。
この宣言前文では、すべての人民には誰にも奪えない権利を持っていると明言しています。本文では独立する正当な理由と国王の圧政が列挙されていて、後文で国王も本国も態度を改めないことからやむを得ず独立を選んだと書かれています。
このアメリカ独立宣言は1776年7月4日に全会一致で採択されました。
独立宣言はこの戦いの大義名分となるもので、国王派、中間派、諸外国に向けて、賛同と正当性を訴えるものとなりました。
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。
「アメリカ独立宣言」ウィキソースより抜粋
最初の星条旗は、13州が分裂せず、協力して国を作っていく重要性を示しています。独立性の高い13州が結束できるかが国家存亡に関わるという認識が反映されたと言われています。
ベンジャミン・フランクリン
政治家、外交官、著述家(1706年-1790年)
アメリカ独立宣言の起草者の1人
印刷業を営む兄の徒弟となり、その後出版業などに携わる
初代郵政長官
アメリカ独立宣言起草委員
パリ条約使節団など
Picture:David Martin, Public domain, via Wikimedia Commons
アメリカVSイギリスとなった戦争
独立宣言を採択したことによって、もはや植民地の反抗ではなく国と国の戦争となります。
しかし、植民地が独立を宣言したからといって、イギリス本国は「はいそうですか」とはなりません。当時のイギリスは世界一の強国であり、植民地が勝手に独立することなど認めるはずがありませんでした。
アメリカ軍は、装備も食料も弾薬も不足する貧弱な体制でした。15歳の少年も兵士として参戦し、白人も黒人も着の身着のままで戦っていたと伝わっています。
(アメリカは欧州でイギリスと対抗していたフランスと手を結び、物資援助を受けることで継戦能力を確保しました。)
1776年、ニューヨークでの戦い(ロングアイランドの戦い)で敗北が続き、ペンシルベニアまで退却したアメリカ軍では、戦いを放棄して多くの脱走が発生しました。
(ワシントン率いる軍は当初の1割程度の兵力になったと言われています)
このとき、トマス・ペインは、「今こそ人の魂が試されるときだ」という言葉で、アメリカ人の決意が試されていると小冊子で訴えています。
John Trumbull, Public domain, via Wikimedia Commons
崖っぷちに立ったジョージ・ワシントンは、僅かになった兵を率いてニュージャージーのトレントを攻撃します。ここにはイギリス軍のドイツ人傭兵部隊が駐屯していていましたが、クリスマスの夜に極寒のデラウェア川を渡ってこれを包囲し捕獲します。(トレントの戦い)
自信を無くしかけていたアメリカ側は、小さな戦いで勝利することにより士気が回復し、失った兵を補充することも可能になりました。
1777年、イギリス軍のジョン・バーゴイン将軍が約8,000人の軍勢でカナダから侵攻します。当初劣勢だったアメリカ軍も、各地から援軍が集まり対抗します。一方イギリス軍は兵士や武器の補充ができず、ついにバーゴイン将軍は降伏します。これが有名なサラトガの戦いです。
この戦いは、アメリカにとって単なる一つの勝利ではありませんでした。
サラトガの勝利によって、それまでアメリカの勝利を疑っていたフランスが最終的にアメリカが勝利すると確信し、物資援助のみならず軍隊を送ってアメリカ側で参戦(1778年)するという大きな転機になりました。
独立戦争の勝敗を決したのは南部での戦いでした。ヨークタウンの戦いです。ヨーク川とジェームズ川に挟まれた半島に陣取ったイギリス軍は、陸のアメリカ軍と海のフランス軍に包囲され、激しい砲撃戦の後イギリス軍は降伏します。
この戦いで独立戦争の勝敗が決定的となりました。
1782年4月、イギリス議会は休戦法案を通し、翌1783年9月にパリ条約を締結しました。
パリ条約
「パリ条約 (1783年)」ウィキペディア
イギリスがアメリカの独立を承認し、ミシシッピ川より東をアメリカ領とした。なお、アメリカに与したスペインおよびフランスとの間にはヴェルサイユ条約が結ばれた。
新国家の建設と領土拡大 1783年~1898年
- 1787アメリカ合衆国憲法制定
- 1789ワシントンが初代大統領に就任
- 1803フランスからルイジアナを買い取る
- 1812-1815米英戦争
- 1819スペインからフロリダを獲得
- 1822モンロー宣言発表
- 1845テキサス共和国を併合
- 1867ロシアからアラスカ購入
- 1898米西戦争/ハワイ併合
この後の別記事「南北戦争と南部再建時代」と時代が重なるため、ここではアメリカ建国の流れが分かりやすくなるように、南北戦争や奴隷制度に関することは省略しています。
連邦制のはじまり
アメリカが「国家」になるには大きな課題がありました。
各州にはそれぞれ議会が存在し、多くの州が独自の憲法も定めて、各々が一つの国(ステート)のように振舞っていました。これをまとめるために何度も大陸会議が開かれます。
各州はイギリスのような強い中央政府を嫌い、アメリカには大きな権力を持たない政府がよいと考え、連邦政府はほとんど支配力を持たないと連合規約に記載します。中央政府が自分たちの港を封鎖したり、税を課すことを避けたかったからです。連邦政府は常備軍を保持することができず、万一の際、軍の司令官は指名できるが兵員は各州にお願いして出してもらわないという仕組みになっていました。
ちなみに連合規約の第1条で国名を「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」と定めました。
しかし、この連合はあまりうまくいきませんでした。
例えば、人口が多い州は、各州1票では不公平だと考えましたし、北部の小さい州は南部と違って新たに開拓して土地を増やすことができないため、南部の州が独自に勢力を西方に拡大することに反対しました。下記の表は、理解しやすくするためのかなり大雑把な比較です。
北部の州 | 南部の州 | |
---|---|---|
土地 | 小さい州が多い 他の州に囲まれている州が多い | 大きな州が多い 西方に進出余地がある |
産業 | 商工業が強い | 大規模農業が強い |
宗教 | ピューリタンが多い | カトリックが多い |
政治 | 影響力が強い | 影響力が弱い |
このような州の対立に対して、連邦政府は資金も軍隊も通商規制権もないことから、有効な手立てが打てません。このことから、もっと連邦政府の権限を強くし、統一的な国内になるべきだと考える人たちが出てきます。
合衆国憲法の父として知られているバージニア州出身のジェームス・マディソンは、連合規約の脆弱さを解消し、新しい憲法の制定が必要だと考えます。
具体的には、「行政機関」「立法機関」「司法機関」を持つ三権分立により運営する連邦制度を提案しました。(バージニア案)
憲法制定会議ではバージニア案の他にも沢山の異なる意見が出されたが、何度かの妥協を重ねることで合衆国憲法を作成しました(1787年)。ただし、この憲法に効力を持たせるには、13州のうち9州以上が批准する必要がありました。各州の批准審議の中でも強い反対などがありましたが、最終的には13州全てで批准(1790年5月)されます。
これによってアメリカは、「ゆるやかな連合」から「より完全な連邦」へと変化しました。
アメリカ合衆国憲法前文
「アメリカ合衆国憲法」ウィキペディアWe the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defense, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.
われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のうえに自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。
合衆国憲法については、資料によって主役が異なっています。
「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」では、ジェームス・マディソンが主役でエドモンド・ランドルフとともに計画を提出したとされています。
「アメリカの歴史をしるための65章」では、アレグザンダー・ハミルトンの名前が出てきて、他の個人名は出てきません。
「若い読者のためのアメリカ史」でも、ジェームス・マディソンが主役で書かれています。
ちなみに、ウィキペディアでは、それぞれ以下のような言葉が使われています。
ジェームス・マディソン:「アメリカ合衆国憲法の父」としてマディソンは憲法の主要な執筆者
エドモンド・ランドルフ:憲法制定会議への代表、「詳細委員会」のメンバーで、憲法の最終版を仕上げる作業に関わった
アレグザンダー・ハミルトン:フィラデルフィア憲法制定会議の発案者で、アメリカ合衆国憲法の実際の起草者
本記事は「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」をベースにしているので、ジェームス・マディソン主役を採用しています。
ジェームス・マディソン
政治家(1751年-1836年)
第4代アメリカ合衆国大統領
下院議員、国務長官
「アメリカ合衆国憲法の父」としてマディソンは憲法の主要な執筆者
「共和党」(後の民主共和党)を創設
Picture:National Gallery of Art, CC0, via Wikimedia Commons
アメリカ初期の政治
ジョージ・ワシントンは、多くの支持を得て初代大統領に選出されます。1789年4月30日、ニューヨークフェデラル・ホールで就任宣誓を行ったワシントンは、「合衆国憲法を保持、保護、防衛する」と誓いを立てます。
ワシントンは宣誓の通り誠実に大統領職を全うしようとしますが、その頃はむしろ彼の周囲が騒がしくなっていました。
ヨーロッパではフランス革命が起こり、フランスと欧州各国が争い、革命を支持する人とこれまでの王政を支持するものが分かれたり、国内ではワシントンの内閣の中でも、ハミルトン財務長官とジェファーソン国務長官の対立が起こります。
国家として生まれたばかりのアメリカを舵取りしていくことは、相当大変な仕事だったと想像に難くありません。ワシントンは、2期目を終えたところで大統領を辞しました。(これが現在の2期8年までという大統領の任期の慣例となる。1951年憲法修正第22条として法制化される)
ハミルトンとジェファーソンの対立は、主に以下の通りです。それぞれに多くの支持者がいました。
ハミルトン | ジェファーソン |
強くて裕福な者が特権や支援を得るべき 強い連邦志向 商工業優先の政策 国立銀行設立 連邦党員の支持を得る | 農民や市民が国家の中心 国家が力を持ちすぎることを懸念 農業を擁護する立場 大きな金融機関を危惧 民主共和党員の支持を得る |
この対立から、自分たちが賛成する指導者を支援する政党が生まれます。
2代目大統領選挙は、民主共和党のトマス・ジェファーソンと連邦党のジョン・アダムズの争いになります。このころから2大政党による大統領選になっていたんですね。
選挙の結果、ジョン・アダムズが第2代大統領になりますが、現代と違い副大統領をどう選ぶかについて憲法に記載がなかったので、次点のトマス・ジェファーソンが副大統領となりました。
ワシントンD.C.(District of Columbia)正式名称「コロンビア特別区」
新国家の首都として計画的に建設された都市は、バージニア州とメリーランド州の間にあります。どの州にも属さない連邦政府が管轄する地域です。(アメリカ合衆国憲法第1条第8節に規定)ワシントンで初めて宣誓就任式をしたのは第3代大統領のジェファーソンである。
トマス・ジェファーソン
政治家、弁護士(1743年-1826年)
第3代アメリカ合衆国大統領
初代国務長官
「アメリカ独立宣言」の起草者のひとり
共和制の理想を追求
最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人とされる
Picture:Rembrandt Peale, Public domain, via Wikimedia Commons
アレクサンダー・ハミルトン
政治家、軍人、事業家(1755年-1804年)
アメリカ合衆国の初代財務長官
独立戦争時、ワシントンの副官
フィラデルフィア憲法制定会議の発案者
連邦党の党首
ニューヨーク・ポスト紙やバンク・オブ・ニューヨークを創業
Picture:John Trumbull, Public domain, via Wikimedia Commons
アメリカ生みの苦しみ
第3代大統領のジェファーソン(在任1801年3月4日-1809年3月4日)については、「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」では1803年にフランスからミシシッピ川以西のルイジアナの広大な土地を安く(1500万ドル)購入したこと(当時国土が一気に約2倍になったのでこれはこれで凄い事です)と、ルイスとクラークを遠征隊として派遣したことくらいしか記載がありません。しかし、ジェファーソンの時代は政治的に様々なことがあったので、基本コンセプトから逸脱しますが少し説明を加えます。
ジェファーソン大統領時代は、ちょうどナポレオンが台頭し皇帝に上り詰める時期と重なります。ヨーロッパではフランスVS欧州という戦争を繰り返していて、イギリスも100年近く戦争と講和を繰り返していた時期です。
当初ジェファーソンは、こうしたヨーロッパの争いに対して中立の立場をとっていましたが、その結果、イギリスからもフランスからも商船が襲われてしまうという事態になりました。
こうした事態に、アメリカではイギリスとの戦争を主張する声も大きくなり、中立政策のジェファーソンは苦しい立場に立たされます。
元々農本主義で小さな政府を志向していたジェファーソンですが、ヨーロッパの戦争による大陸封鎖によって、中立貿易が大打撃を受けると、アメリカ国内でも工業を発展させ、ヨーロッパに依存しない経済の必要性に迫られ方針を転換します。
こうした情勢のなか、1809年に第4代大統領に就任したジェームス・マディソンは、大きな問題に対処する必要がありました。西部ではイギリスがインディアンと結託し入植者を攻撃していると噂が流れ、海上では、アメリカの商船を妨害したり、水兵を拉致してフランスとの戦争に投入するなどの横暴を働いていました。
これに反発した人たちはイギリスとの戦争を要求し、1812年ついにマディソン大統領はイギリスに宣戦布告します。(米英戦争1812-1815)
Picture:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
マディソン大統領は当初楽観的な見方でしたが、戦争準備が不十分なアメリカ軍は、ヨーロッパ戦線で手いっぱいのイギリス軍を相手に劣勢が続きます。一時はワシントンD.C.にまで侵攻されてしまいます。
双方決め手に欠き疲弊した結果、平和条約を締結し米英戦争は終結します。
ちなみに、この戦争がアメリカとイギリスの最後の戦争となりました。(今のところ)
「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」では語られていませんが、この戦争にはいくつかの意味があったとされている。一つは、この戦争とその前に取られたイギリスからの禁輸が結果的に関税障壁の役割となって、アメリカ国内の工業促進(それまでは工業製品は欧州から輸入し、アメリカは農業による食料輸出が多かった)につながり、第二次独立戦争とも呼ばれるこの戦争が経済的な独り立ちに一役買ったという点がある。もう一つは、教科書ではほとんどインディアンについての記載がないが、この戦争でもインディアンとの激しい戦闘が行われ、インディアン諸部族に大きな損害を与え、その後インディアン諸部族の力が弱まったという点である。これらのことがその後の西部開拓を促進する要因になったと考えられる。
モンロー主義
マディソンのあとに大統領に就任したのはジェームズ・モンロー(第5代大統領)です。
このころ、南米ではスペインやポルトガルの植民地が次々と独立を宣言します。モンロー政権はこれらを歓迎する姿勢を示します。
モンロー大統領は年次教書演説で、ヨーロッパ諸国が南北アメリカでこれ以上植民地を建設しないよう訴え、同時にヨーロッパの紛争や政治に干渉しないと宣言します。要するに、「ヨーロッパに干渉しないからアメリカ大陸に干渉するな」ということです。
今回参考にしたどの資料もモンローに関する記述は極めて少ないですが、「モンロー主義」という概念は、この後アメリカ政治に度々登場することになります。
ジェームズ・モンロー
政治家、軍人(1758年-1831年)
第5代アメリカ合衆国大統領
上院議員
バージニア州知事
陸軍長官
国務長官
Picture:John Vanderlyn, Public domain, via Wikimedia Commons
西部の領土拡大
アメリカ人は新しい土地を求めて西へ南へ進出していきます。未開の土地を行くには困難が多く、またインディアンとの争いも絶えませんでした。また、広大なアメリカ大陸を徒歩や馬車で移動するのは大変でしたので、このころ運河や鉄道の建設が進みます。
南部のテキサス地方は、当初メキシコが保有していました。メキシコ政府はテキサス開拓のためにアメリカ人の移住者を歓迎していましたが、アメリカ人が増えるとメキシコ政府を嫌がりやがて対立します。
テキサス人が独立を求めるとメキシコと戦争になります。当初メキシコ軍が勝利します。1836年のアラモ砦の戦いは有名です。(少数で守るテキサス人が最終的に包囲され全員が殺される)
しかし、アラモ砦の兵士達はテキサスの英雄とされ、テキサス軍を奮闘させ、最終的にテキサス軍が勝利しメキシコを撃退します。
この時のテキサスはテキサス共和国でありアメリカ合衆国ではありませんでした。テキサス共和国がアメリカに併合されるのは1845年です。
テキサスがアメリカに併合されると、アメリカとメキシコの間で国境紛争が起こります。このときアメリカは、テキサスの国境もさることながら、その先のカリフォルニア(メキシコ領)を狙っていました。
戦力に勝るアメリカ軍は、カリフォルニア方面とメキシコ方面を攻め、メキシコシティも攻め落とし、アメリカが勝利します。
これによってアメリカはテキサス以西のカリフォルニアやネバダ、ユタ、アリゾナなどの広大な土地を手に入れて、ついに国土が西海岸まで広がりました。
その後もロシアからアラスカを購入し、ハワイ共和国を併合し、ほぼ現在のアメリカの姿になります。
まとめ
イギリスとの独立戦争に勝利したアメリカは、新国家の建設と領土拡大を進めます。まだ地球にフロンティアが沢山残っていた時代で、力が強いものが領土を獲得していく時代でした。最初は貧弱だったアメリカは軍隊と経済を強化して、次第に北アメリカの覇者となっていきます。
もともと自治意識が高く、中央政府の力も隅々まで及ばない時代で、同時代には南北間の対立が激しくなっていきます。この後の記事で「南北戦争と南部再建時代」をやります。
この時期のアメリカはまだまだ発展途上で、いくつもの苦境を乗り越えて現代に続いていきます。
興味がわいた方は是非参考文献も読んでみてください。
James M.Vardaman,Jr、村田薫(編).「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」.ジャパンブック,2005
James West Davidson(著)、上杉隼人、下田明子(訳).「若い読者のためのアメリカ史」.すばる舎,2018
富田虎男、鵜月裕典、佐藤円(編著).「アメリカの歴史を知るための65章【第4版】」.明石書店,2022
「アメリカ合衆国基礎データ」.外務省https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/data.html(参照2023-01-16)
ウィキペディア.「アメリカ独立戦争」(参照2023-01-19)
ウィキペディア.「レキシントン・コンコードの戦い」(参照2023-01-19)
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