アメリカの小学生が学ぶアメリカの歴史-南北戦争と南部再建時代

世界の歴史

アメリカの歴史をアメリカ目線で見るために、アメリカの小学生が学んでいる歴史を参考に解説します。
今回は、前回の記事(独立戦争と新国家建設時代)と時期が重なりますので、前回の内容は省略しています。

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北部と南部の対立

タイムラインのタイトル
  • 1820
    ミズーリ協定

    ミズーリ州が奴隷州として加盟する代わりにメイン州が自由州として加盟

  • 1861
    2月
    サウスカロライナなど7州がアメリカ連合国を結成
  • 3月
    リンカーンが第16代大統領に就任
  • 4月
    サムター要塞の戦い

    南北戦争が始まる

  • 1862
    奴隷解放宣言
  • 1863
    ゲティスバーグの戦い

    戦いに勝利したリンカーンがゲティスバーグ演説を行う

  • 1865
    4月9日
    アポマトックスの降伏

    南軍のリー将軍が降伏し、南北戦争が事実上終結

  • 4月14日
    リンカーン大統領暗殺

    南軍降伏のわずか5日後に銃弾に倒れる

  • 1865-1877
    南部再建時代

1800年代前半の社会情勢

この時期は西部の開拓がどんどん進み、人口が増えたことによって新しい州が誕生していく時期です。

また東部地方では、北部は商工業が発達し、南部では農業が発展します。このような19世紀初めごろ、奴隷制度をめぐって南北が対立を深めていきます。

一般的な日本人教育の私の知識では、南部では大規模農場がいくつもでき、労働力としての奴隷が不可欠な状況になっていき、南部が奴隷制擁護、北部が奴隷解放という単純な構造を思い浮かべます。

Berkley, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

しかし、少し調べると状況はもう少し複雑です。

確かに主力産業の違いにより、南北で奴隷の重要度や人口は違っていたようですが、北部にも奴隷制度はあり、奴隷制度反対の議員たちも奴隷を所有していました。

また、元々奴隷について「当たり前の社会」の時代から徐々に人権という意識が広がっていったと思っていたのですが、実は当初から奴隷制度に反対する声は多数あって、しかも最初は年期奉公労働といういわば期間労働者だったのが、次第に奴隷を制度化し定着すると、今度は奴隷なしで産業も生活も成り立たなくなってしまったというのが実際の流れだと知りました。

一旦社会システムに組み込まれてしまうと、今度は手放すのがとても困難になり、奴隷解放は言わば既得権益を破壊する考えになってしまいます。

ピッタリくる例えではないかもしれませんが、明治維新で藩主が土地も家臣も(いわば権力や利権)を政府に取り上げられそうになって戦争になったのと同じかもしれません。

どちらも後世になってみれば正しい事に見えますが、その時の当事者にとってみれば死活問題です。

さらに南北の産業的分業も奴隷制度に大きく影響します。

北部の工業が発達すると、それまでイギリスに綿花を輸出し生地や衣料を輸入するという国際分業から、国内で生地や衣料を生産できるようになり、北部の生産拡大が南部の綿花の需要を拡大し、奴隷の需要も増えていくという皮肉なジレンマが発生します。

南部の奴隷が増えると、「5分の3方式の妥協」(奴隷5人で白人3人分の人口と数え、下院議席の人口割に影響を与える)によって取り決められた通り、南部州の下院議員の議席数が増えてしまうという問題が発生し、これも南北対立に拍車をかけます。

このような状況を背景に、奴隷廃止論者と奴隷制度擁護者の対立は時とともに鮮明になっていきます。

1819年に、ミズーリが新たな州として合衆国に加盟申請を行います。この時点では、北部自由州と南部奴隷州の数が11対11で均衡していたので、ミズーリがどちらかに加わるとバランスが崩れてしまいます。

そこで、翌1820年にミズーリが奴隷州として加盟する代わりに、メイン州を自由州として加盟させることでバランスを取りますが、逆に対立が鮮明なものとなります。(ミズーリ協定

同時にアメリカを南北に分ける境界線が引かれ、北部は奴隷制が違法とされました。

これはアメリカ合衆国憲法策定時の「より完璧な連邦」という理念に反する行為でした。この後も新しい州の加盟申請が行われるたびに、自由州と奴隷州の勢力争いが続きます。

 

一番の当事者である奴隷たちは、このような状況の中でも選挙権がないため、お偉いさん達の争いに直接関与することができません。

彼らは、サボタージュを行ったり、北部へ逃げる(=南部の人口が減り、北部の人口が増える)ことによって抵抗を続けます。

5分の3方式の妥協

1787年のアメリカ合衆国憲法制定会議で合意された議員定数に関する規定。奴隷の人数を人口に含めるかどうかで対立した各州をまとめるために、各州の奴隷人口の5分の3をその州の総人口にカウントするという妥協で決着された。

リンカーン大統領誕生

「選挙結果の図(数字は各州の選挙人数)」AndyHogan14, Public domain, via Wikimedia Commons

エイブラハム・リンカーンは、奴隷州であるケンタッキー生まれで、自由州であるインディアナとイリノイで育った人物で、弁護士になった後政治家になりました。

彼が大統領選挙を戦った1860年は、既に戦争前夜のように対立が鮮明になっている時期です。

リンカーンは、奴隷制度に反対でしたが、彼の当時の政策は、「これ以上奴隷制度を拡大しない」というもので、既存の奴隷州から既得権を取り上げるということではありませんでした。

しかし、一つの国の中で異なる正反対の制度を存在させることの難しさを同時に感じていたようです。

大統領選挙中もなるべく南北を分断しないよう努めたリンカーンでしたが、南部側の人達はこれを信用しません。もしリンカーンが大統領になったら、一気に奴隷制度を禁止すると考えたのです。

大統領選挙は政党間の争いから完全に南北の争いになりました。

このような情勢の中、南部で票を獲得できなかったリンカーンですが、北部と西部の支持を受けて大統領に当選します。

エイブラハム・リンカーン

政治家、弁護士(1809年-1865年)
第16代アメリカ合衆国大統領
州議会議員
下院議員
「もっとも偉大な大統領」の1人に挙げられている
Photo:Alexander Gardner, Public domain, via Wikimedia Commons

南北戦争

南北戦争勢力図 Picture:©Shogakukan 出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

リンカーンが当選すると、危機感を覚えた南部7州は、リンカーンが正式に大統領に就任する直前に連邦を脱退して連合国を結成します。(サウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州)

リンカーンは、国家の分裂を何とか回避しようとしますが、連合国側は軍隊を結成して北部軍が駐留するサムター要塞を攻撃します。(サムター要塞の戦い:1861年)これが南北戦争の始まりです。

「サムター要塞に砲撃を加える南軍」Miscellaneous Items in High Demand, PPOC, Library of Congress, Public domain, via Wikimedia Commons

サムター要塞の戦いの後、さらに3州が連合国に加わります。

当時の社会では、南北ともに戦争を期待していたと言われています。同時に、どちらも戦争はすぐに終わるだろうと楽観視していたようです。

しかし、当初数万の兵力で始まった戦争ですが、この後4年にわたって戦争が続き、両軍合わせて約300万人を動員する大戦争になります。(開戦当時のアメリカの人口は奴隷も含めて約3,120万人)

合衆国連合国
人口22,100,0009,100,000
自由市民28,800,0003,000,000
奴隷400,0003,500,000
兵士(1860-64年)2,100,0001,064,000
1860年の南北比較:「南北戦争」ウィキペディアより抜粋

リンカーンは当初、奴隷禁止を全面に出していませんでした。あくまでも、離脱した州の反乱を抑え連邦を維持する戦いという位置づけです。それは、まだ連邦に残っている南北境界の奴隷州が離脱するのを恐れたからです。開戦当初は北部側が劣勢だったため、極端な政策で敵を増やし国家を分断したくなかったのです。

このとき北部の強硬派は、奴隷解放を強く打ち出すよう求めます。そうすれば、南部の奴隷が北部に味方し、南部が弱体化すると考えたからです。

奴隷解放宣言

リンカーンはそれでも境界州の離脱を恐れて、「段階的な開放」などの融和策で交渉しますが、境界州はこれを受け入れませんでした。

この結果、リンカーンはとうとう見切りをつけて政策を転換します。

1862年9月、奴隷解放宣言(第1部)を発表し、1863年1月1日、奴隷解放宣言(第2部)によって、南部連合が支配する地域内の奴隷を開放すると宣言しました。

注)この時点では、合衆国側の奴隷は解放宣言に含まれていません。最終的には1865年憲法修正第13条によって確定しました。

これによって、「連邦統一の戦争」が名実ともに「奴隷解放戦争」と姿を変えました。

これは、私が理解していた内容(全ての奴隷が解放されたと思っていた)と異なり、自分達の側の奴隷は開放しないが、敵の奴隷は解放するというおかしな宣言です。

しかし、この宣言が与えた影響は大きく、多くの奴隷が北軍に味方したり、北部へ逃れるなどして、戦況を大きく変えるきっかけとなりました。

南北戦争の終結

「ゲティスバーグの戦い」Popular Graphic Arts, Public domain, via Wikimedia Commons

1863年7月、ペンシルバニア州のゲティスバーグで北軍が勝利すると、リンカーンは知事らに招かれ、アメリカ史に残る演説をします。

”これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の、人民による、人民のための政府を決して地上から消え失せないようにするために、我々がここで固く決意する。”

この後、劣勢だった北軍は挽回していきます。リンカーンは、局地戦での勝った負けたを繰り返すのではなく、大局的に南軍の兵站を締め上げる戦略に打って出ます。

南部の港を海上封鎖し、戦争に必要な物資が届かないよう兵糧攻めにしたのです。これによって南部は次第に敗戦濃厚となっていきます。

1865年4月9日、アポマトックス・コート・ハウスの小さな町で北軍のユリシーズ・グラント将軍と南軍のロバート・E・リー将軍は会談を行います。この会談でリー将軍は降伏し、事実上南北戦争が終結します。(アポマトックスの降伏

南北戦争の主な戦場 画像をクリックするとGoogleマップで閲覧できます

南部の再建

分断された国家を一つにまとめるため、リンカーンはまだ南北戦争が終わらないころから「南部再建」計画を考え始めます。リンカーンは、南部諸州が合衆国に復帰し、再び一つの家族になることを望んでいました。

「(南部を)寛大に扱いたまえ」、彼が周囲に語った言葉です。

しかし、南軍が降伏しようやく戦争が終結するというわずか5日後にリンカーン暗殺されてしまいます。

ジョンソン大統領の南部再建

副大統領であった南部出身のアンドリュー・ジョンソンが大統領に昇格しました。彼は南部出身ではあるが、南部の連邦離脱に反対した人物です。

北部の有力者たち(共和党急進派)は、敗れた南部の有力者に罰を与えるべきだと考える人もいましたし、ジョンソン大統領もそうするだろうと考えていました。

しかし、ジョンソン大統領は南部に対して恩赦を実施し、アメリカ国民としての権利を復活させます。これによって、南部の州は奴隷制度を廃止し、合衆国に復帰しましたが、南部連合の指導者たちが再び南部諸州の州議会議員などの公職に復帰してしまいました。

旧南部連合のすべての州はアフリカ系アメリカ人に選挙権は与えませんでした。さらには、奴隷解放を骨抜きにするような「黒人法」という法律で彼らの権利が大幅に制限されるなど、差別的扱いは消えませんでした。

連邦議会は、こうした大統領と南部諸州に対して、南部再建をやり直す厳しい法律を可決します。大統領は拒否権を何度も発動し抵抗しましたが、議会は大統領の拒否権を覆すだけの投票があり、議会案が決定されます。

これによって、元南部連合のリーダーたは公職を追われ、連邦政府主導の南部再建が行われていきます。


南部で100人以上の奴隷を抱えていたのは、人口の約0.025%、白人家庭の4分の3は奴隷を一人も持っていなかった。にもかかわらず、奴隷制度を頑なに続けようとしたのはなぜだろうか?
日本の大企業の比率が約0.3%でほとんどが中小企業という構図と似ているかもしれない。特にこの時代はまだ、一部の有力者が政治を仕切っていたため、それらの意向が強く反映していたのかもしれません。

このことについて「若い読者のためのアメリカ史」によると、”奴隷を所有していない貧乏な白人たちも奴隷制度に賛成していた。彼らは豊かな農場主を腹立たしく思いながらも、(黒人がいるため)「自分たちは自由だ」という慰めがあった。”と言っています。

つまり、奴隷を持っていない貧しい白人たちには、自分達より不遇な人が必要だったのです。


南北戦争によって、奴隷解放は実現しましたが、平等には程遠い時代が続きます。

アメリカ合衆国憲法修正第14条[市民権、平等権](1868年)、修正第15条[選挙権の拡大](1870年)によって、徐々に白人とそれ以外の人の権利は平等になっていきますが、まだまだこの先も問題を抱え続けていきます。

アンドリュー・ジョンソン

政治家(1808年-1875年)
第16代アメリカ合衆国大統領
副大統領
上院議員
Photo:Mathew Benjamin Brady, Public domain, via Wikimedia Commons

まとめ

南北戦争はアメリカ人にとって非常に大きな出来事でした。南北戦争の戦場の多くが現在も史跡として保存されていることが物語っていると思います。

当時の人口の1割が兵士として参戦し、70万人とも90万人とも言われる死者を出した大戦争は、単に奴隷解放のためだけの戦争ではなかったと思います。

個人的には日本でいうところの明治維新に似ているのではないかと思います。旧体制的社会システムを守ろうとする勢力と新しい社会を目指す勢力が国を二分して戦う構造がそう思わせます。そして、この戦争の結果がその後の国の在り方を形作り、現在につながっている点も似ているかもしれません。

奇しくも南北戦争と日本の幕末は同時期であり、その後同じ時代に近代国家を建設していく両国の共通項に目が行ってしまいます。

本記事では触れませんでしたが、南北戦争時代にはほかにも様々な社会的変化があったとされています。男性が兵士にとられ、不足した労働力を補うため多くの女性が仕事に就いたり、物資不足のためインフレが深刻化し、戦費調達のために国債が発行され所得税が導入されるなど社会と経済にもこの戦争が与えた影響は非常に大きなものでした。

参考文献

James M.Vardaman,Jr、村田薫(編).「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」.ジャパンブック,2005
James West Davidson(著)、上杉隼人、下田明子(訳).「若い読者のためのアメリカ史」.すばる舎,2018
富田虎男、鵜月裕典、佐藤円(編著).「アメリカの歴史を知るための65章【第4版】」.明石書店,2022
ウィキペディア.「南北戦争」(参照2023-01-26)
ウィキペディア.「ゲティスバーグの戦い」(参照2023-01-27)

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