台湾の高校生が学ぶ台湾の歴史ー政治体制の変化とリーダーたち

台湾の歴史世界の歴史
台湾地図

名称:中華民国
首都:台北市
人口:約2,340万人(2021年)
面積:36,197㎢
通貨:新台湾ドル
政体:三民主義に基づく民主共和制。五権分立
名目GDP:7,727億米ドル(2021年、台湾行政院主計處)
在留邦人:24,162人(2021年10月現在、外務省「海外在留邦人数調査統計」)

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台湾の年表 ~1895年

台湾史年表
  • 1544
    ポルトガル船が台湾を発見

    「麗しの島(Ilha Formosa:イリャ・フォルモサ)」と呼ぶ

  • 1624
    オランダが南部を占領

    現在の台南市周辺を占領し要塞を築く

  • 1626
    スペインが北部を占領

    基隆を占領し、サン・サルバドル城を構築

  • 1642
    オランダがスペインを駆逐

    オランダによる統治

  • 1662
    鄭成功がオランダを駆逐

    台湾を「東都」と称し政権を樹立

  • 1683
    鄭氏政権が清に降伏

    翌年、福建省に編入するも統治には消極的
    1684年、渡台禁令(台湾渡航禁止令)

  • 1858・1860
    天津条約(1858)・北京条約(1860)で台湾開港

    台南、淡水、基隆、高雄が開港

  • 1874
    牡丹社事件で清朝が積極的な台湾統治に転換

    渡台禁令(台湾渡航禁止令)を廃止

  • 1885
    台湾省に昇格

    台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫を置き(初代:劉銘伝)、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治と近代化を実施する

  • 1895
    日清戦争終結、下関条約締結

    台湾が日本の統治下になる

先史時代

台湾が歴史の表舞台に登場するのは16世紀になってからだが、それまでも台湾島はそこにあり、人も住んでいました。遠く遡れば、旧石器時代には人が居住しており、大陸側も台湾島を認識していて、三国時代の呉の孫権が将軍を派遣して台湾探索を行ったとされています。

元々台湾島は、オーストロネシア語族に属する習慣や言語が異なる複数の民族集団が生活する島でした。この人たちが文字どおり台湾固有の民族といえます。その祖先は海から渡ってきたとされています。遺伝子的には、ニュージーランドから東南アジア、ハワイに分布するマレーポリネシア系と近いという研究があります。

その後、大陸から移り住んできた人たち(特に中国南部の福建からの人たちが多い:ホーロー人)が増えていってその後の台湾に大きく影響を与えていきました。

1600年代には中国大陸で清王朝が発足しますが、当時は台湾は未開の土地で言葉が通じず、伝染病が蔓延する土地として能動的な統治は行われていませんでした。そのため、大陸で罪を犯した者などは台湾に逃亡することがしばしばあり、実質的には統治者がいない状態が長く続くことになります。

その少し前の1593年には豊臣秀吉が台湾に入貢を促すために使節を送りましたが、当時台湾を統治するものがおらず、親書を渡せないまま持ち帰ったとされています。(持ち帰った親書は加賀藩前田家に伝わっているといいます)

オランダ植民地時代

大航海時代になると、ヨーロッパ各国が中国大陸や日本にやって来るようになります。そんな折、中国大陸とも日本とも近い統治者のいない台湾島が重要な根拠地として注目されます。

台南市の安平古堡の様子
台南市の安平古堡:Joan Blaeu, Public domain, via Wikimedia Commons

まず1624年に、オランダ東インド会社が対中貿易の拠点として、大員港(現在の台南市付近)を占領し要塞を建築します。

その後1626年には、スペインが北部基隆に要塞を築き、それぞれがその周辺を支配下に納めます。

ヨーロッパ各国は当時、世界中に植民地を建設し現地の人にとっては困難な時期であったことは確かですが、外からの勢力が侵攻してくることによって、それまでバラバラだった原住民たちに共通のアイデンティティを醸成する効果はあったものと思えます。

また、文字を持たなかった台湾にローマ字を持ち込み、文字を手に入れた原住民は文書で契約を交わすという新たな習慣を手に入れました。

最終的に、オランダがスペイン人を追い出し(1642年)、台湾はオランダの植民地となってしまいます。

鄭氏支配時代

オランダ支配の時期は、あいつぐ住民の反乱に直面していました。

そこへ鄭成功率いる軍勢が台湾に上陸し、オランダとの戦いに勝利し台湾を占領しました。

台湾の人にとってみれば、外来政権が交代したに過ぎない出来事ではあったが、それまでの酷いオランダ統治から救ってくれたという面もあります。

また、この時はあくまでもオランダが統治していた主に台湾島西側が鄭成功の勢力圏になったにすぎず、台湾島全域がその支配地になったわけではありませんでした。

鄭成功はもともと「反清復明」として、清朝に対抗し明朝復活を目指して戦っていて、台湾はあくまでも劣勢で逃れてきた仮の住処であり、いずれは反転攻勢に出ようとしていました。そういう意味では後の蒋介石と同じ考え方です。

鄭成功政権は台湾初の漢人政権となり、食料確保のための開墾や対外交易を活発化させます。鄭経(鄭成功の子)時代には孔子廟を建設し、学校の開設なども行い、この時代に漢文化の普及が盛んに行われました。

こうして台湾で形成を立て直したかった鄭成功ではありますが、1662年に熱病に侵され志半ばで倒れてしまいます。

鄭成功の死後は権力争いが度々起こり、息子と孫があいついで国王(東寧国王)となりますが、鄭成功のような能力はなく、1683年清朝によって鄭氏王朝は滅ぼされてしまいます。

これをもって「台湾は中国の一部になった」と言われることがあるが、清は満州人の王朝であるので、「漢民族の中国」とは異なるという点は付記しておきたい。

鄭成功

鄭成功

中国明代の軍人、政治家
日本の肥前国松浦郡平戸島(長崎県平戸市)で誕生
父は鄭芝龍、母は田川マツ
清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となる
台湾国民と民進党および国民党から、清と対抗しオランダ軍を討ち払ったことから、総理・孫文、総裁・蔣介石とならぶ「三人の国神・国民の父」の一人として尊敬されている
Picture:National Taiwan Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

清朝統治時代

清朝による台湾支配は200年以上に及びます。ちょうど日本の江戸時代と大きく重なる時期です。

鄭氏を滅ぼした清は、1683年に台湾を福建省に編入し形式的に統治しますが、当時は「化外の地」(皇帝による徳の支配が及ばない土地)という野蛮な地域とみなされ、実際には清国の制度は適用されず積極的な統治は行われていませんでした。

さらに、清朝は台湾が反乱分子の拠点になることを恐れて、中国大陸と海外との往来を厳しく取り締まる「渡台禁令」を出し、台湾への渡航を厳しく管理します。

しかし、大陸(特に福建省・広東省)からの密航は後を絶たず、台湾では中国人と原住民(主に平埔族)の混血が進み、現在の台湾の本省系漢民族のルーツとなっています。同時に言語文化も中国語南部系になっていきました。

この時代、原住民は複数の族群に別れていて、お互い言葉も通じず習慣も異なることから、信頼感がなく集団同士の衝突(分類械闘)が頻発していました。それが原因で、オランダ統治時代以上に反乱が多かった台湾では、団結して清朝に対抗することができずに長期間支配されることとなります。

19世紀になると、中国・日本の間に位置し、交易の中継点として商業が急速に発展していきます。その後ヨーロッパ諸国が北上してきて台湾近海に出没するようになると、台湾もその影響を大きく受けるようになってしまいます。1858年にアロー戦争に敗れた清国が天津条約・北京条約を締結したことによって、台湾でも台南、淡水、基隆、高雄の港が列強各国に開港されることになります。

ただし、これを契機に台湾住民が団結して外国勢力に対抗する必要が高まり、長年の悪弊であった「分類械闘」(族群間の闘争)が鳴りを潜めていきます。

イギリス、フランス、アメリカなどが次々と台湾に目を付け、侵攻を試みるようになると、牡丹社事件(日本の台湾出兵)や清仏戦争をきっかけに、清国は今更ながら台湾の重要性を認識し、1885年に福建省から分離し台湾省に格上げするとともに、巡撫(初代:劉銘伝)を置き本格的な統治を始めます。

劉銘伝時代には、行政区画の拡充や鉄道・電信線の敷設など、台湾の近代化に取り組みました。

1894年、朝鮮問題を巡り日清戦争が勃発。翌1895年、日本が勝利すると下関条約が締結され、台湾が日本に割譲されます。これを知った台湾の官吏達は、清朝廷に撤回を求めるが受け入れられず、自ら台湾民主国を樹立しました。上陸した日本軍に抵抗するも、台湾民主国の主要リーダー達は相次ぎ大陸へ去っていき、台湾民主国は崩壊しました。

【牡丹社事件】(宮古島島民遭難事件)
1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古、八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古の船の1隻が、台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件。(1)
日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。(2)
当時琉球は、清と日本の薩摩藩に朝貢を行っていたため、清も領有を主張していたが、この事件をきっかけに晴れて日本が領有を主張できるようになった。

(1)「台湾の歴史」ウィキペディア(2)「宮古島島民遭難事件」ウィキペディア

日本統治時代 1895年~1945年

台湾総統府
日本統治時代の台湾年表
  • 1895
    日本統治開始

    樺山資紀が初代相当に就任、台湾総統府を設置
    台湾民主国が建国されるが崩壊

  • 1898
    児玉源太郎・第四代総統、後藤新平・民政局長が着任

    土地調査事業開始(~1905年)。インフラ整備、衛生環境と医療の大改善を行い伝染病を克服し、阿片漸禁策によってアヘン根絶に取り組む
    匪徒刑罰令施行

  • 1901
    新渡戸稲造が「糖業改良意見書」を提出

    台湾総督府は、この意見書に基づき奨励策を展開し、製糖業を台湾における最大の産業に急速に発展させた

  • 1905
    日本政府の補助金を辞退

    土地調査事業終了、南北縦断鉄道開通、日本政府の補助金を辞退し独立財政に

  • 1920
    烏山頭ダム着工

    八田與一により策定され、嘉南平原の農業灌漑を主目的として建設(1930年完成)された。当時世界一のダム

  • 1921
    台湾文化協会結成

    台湾知識人たちが文化的啓蒙を目的に設立

  • 1923
    台湾議会期成同盟会が結成される

    台湾独自の議会設置の請願運動が活発化(台湾総統府は弾圧)。その後も台湾人による政治運動が続く

  • 1927
    台湾民衆党結成

    林献堂ら台湾知識人が台湾議会設置請願運動を行う

  • 1938
    台湾総督小林躋造が「皇民化、工業化、南進基地化」の三大政策を布告

    国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革が進められる

  • 1944
    徴兵制実施

    多くの台湾人が日本軍として従軍

  • 1945
    日本敗戦

    国民党軍が台湾に上陸し領土編入を宣言

日本統治初期

台湾総督任命日主な出来事
1樺山 資紀1895年5月10日六三法制定
2桂 太郎1896年6月2日
3乃木 希典1896年10月14日三段警備制を採用
4児玉 源太郎1898年2月26日三段警備制を廃止
匪徒刑罰令を制定
土地調査事業開始
5佐久間 左馬太1906年4月11日三一法施行
苗栗事件
6安東 貞美1915年5月1日西来庵事件
7明石 元二郎1918年6月6日嘉南大圳建設を承認
台湾軍初代司令官
8田 健治郎1919年10月29日初の文官総督
法三号施行
日台共学を許可
9内田 嘉吉1923年9月6日
10伊澤 多喜男1924年9月1日
11上山 滿之進1926年7月16日
12川村 竹治1928年6月16日
13石塚 英藏1929年7月30日嘉南大圳が完成
霧社事件
14太田 政弘1931年1月16日
15南 弘1932年3月3日
16中川 健藏1932年5月27日台湾初の選挙実施
17小林 躋造1936年9月2日皇民化運動
18長谷川 清1940年11月27日志願兵制度実施
義務教育実施
徴兵制実施
19安藤 利吉1944年12月30日終戦

初代台湾総督に樺山資紀が就任し、日本軍が台湾に上陸します。

日本統治の初期段階では台湾住民の抵抗運動が相次ぎます。日本軍と激しく戦い、当初の5カ月あまりの戦いで約1万4000人もの犠牲者が出たとされています。(1896年の台湾人口は約258.8万人)

日本が台湾を割譲した当初、台湾の統治法について「内地とは異なる属地として特殊な統治を行う」か「内地の一部として本国の法律を適用する」かで議論が分かれていました。しかし、相次ぐ抗日活動に武力で対抗する必要があったため、武官総督による特殊統治を行うことになりました。

1896年に「六三法」が制定され、台湾総督に対して台湾における法的効力のある律令を発布する権限が与えられ、日本国内とは異なる法制(特殊法域)で台湾運営がなされることになります。この結果、台湾総督は行政、立法、司法、軍事を全て掌握することになり、専制的という揶揄を含めて「土皇帝」と呼ばれました。

台湾政策の変遷

台湾政策の変遷

統治初期には、平地での漢民族の制圧と治安維持を優先するため、山間部の原住民に対しては清統治時代の隘勇(あいゆう)制度や理蕃(りばん)政策を踏襲して原住民を封じ込めようとしました。

また、総督府は、各地の治安維持のため大量の派出所(1901年には930ヵ所)を設置し、全国に多数の警察官を派遣します。この時の警察官は現在の警察官とは異なり行政機関の役割から市民の日常生活全般に関わり、中には子供に勉強を教えるなど懸命に現地に貢献した人もいたといいます。

隘勇制度:台湾原住民の襲撃に備えるために設けられた一連の防衛組織のことを指す。「隘勇線」とは、先住民族の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものであった。

「隘勇制度」ウィキペディア

理蕃政策:原住民に対する統治や施策のこと(原住民を高山地帯に追い込み帰順を迫った)

薛化元主編、永山英樹訳.「詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書」.雄山閣,2020.P117 括弧内は筆者

森川 清治郎(もりかわ せいじろう、1861年 – 1902年)
日本の警察官。日本統治時代の台湾で住民のため税の減免を願い出て台湾総督府との間で板挟みになって自決し、赴任地であった嘉義県東石郷副瀬村の霊廟「富安宮」で「義愛公」として現在に至るまで祀られている。

1861年、横浜市中区紅梅町(現・神奈川県横浜市西区戸部本町)の農家の息子として生を受けた。日本にて警察官としての業務をこなしていた。日清戦争終結2年後の1897年、台湾が日本の統治下になったのをきっかけに渡台し、台南県下の大坵田西堡副瀨庄(現・嘉義県東石郷副瀬村)の派出所勤務となった。劣悪な治安情勢の中、粉骨砕身の思いで任務を続ける傍ら、寺子屋を開き、日本より教科書を取り寄せて住民に読み書きを指導した。農業も指導したほか、コレラやマラリアが蔓延していた現地の衛生状態を改善するために排水溝を作るなど衛生教育にも熱心であった。こうしたことから、近隣住民からは「大人」と慕われるようになった。

1902年、台湾総督府は新たに制定した漁業税の徴収を開始した。村は半農半漁であったが、これを聞いた森川は「貧しい村民に支払いは無理」と考え、地方官庁へ出向いて税の減免を嘆願した。しかし、当時の官庁の責任者は「警官でありながら、村民を扇動するつもりか」と叱りつけた上、森川を戒告処分に処した。森川は無力感にさいなまれて村民にこのことを詫びると、数日後の同年4月7日、朝の巡回を終えた後に火縄銃の引き金に足の指をかけて喉から頭部を打ち抜き自殺した。銃声を聞いて駆け付けた住民は泣いたという。

「森川清治郎」ウィキペディア

本格的な台湾経営

植民地経営というと、本国が搾取して儲けるというイメージがありますが、台湾統治の初期の日本は、搾取どころが多額の持ち出し(国庫補助金)が必要な状態で、1896年(明治29年)には694万円を拠出しました。これは当時の日本の一般会計歳出の5.71%に相当します。(令和4年度予算約107兆円の5.71%は約6.1兆円)

日本本国からの補助金は、1896年(明治29年)度から1909年(明治42年)度までに総額30,488,000円に上り、その後台湾は1945年まで財政的に独立しました。

第4代総督の児玉源太郎は、後藤新平を台湾総督府民政局長(首相のような役割)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任します。

医師でもあった後藤新平は、「生物学の原則」に照らして、台湾の自然環境や風土民情・これまでの慣習を理解すべく大規模な調査事業実施しました。同時に台湾の経済基盤を強化するため、専売事業(アヘン、塩、樟脳、たばこ、度量衡器など)で産業を保護しつつ総督府の収入源を強化していきます。

当時有望産業であった製糖事業を発展させるため、農政学者であった新渡戸稲造を招聘し、新渡戸が提出した「糖業改良意見書」に基づき、製糖業を台湾最大の産業に発展させました。

また総督府は長期間にわたって、道路・鉄道の交通インフラ、灌漑用水・水力発電などの工業インフラ、上下水道などの公衆衛生インフラなど、社会インフラを次々と整備していきます。

嘉南大圳を設計し烏山頭ダム建設に尽力した八田與一の銅像と墓
Photo by 八木迷々

これによって、台湾経済は急速に発展するとともに、長年悩まされていた伝染病の蔓延を克服し、近代化を実現していきます。

このように日本統治は、差別的な抑圧体制による台湾人の蜂起というマイナスの側面と、インフラ整備・経済発展というプラスの側面が同時に存在する時代でした。

児玉源太郎

児玉源太郎

明治時代の陸軍軍人、政治家(1852年-1906年)
徳山藩出身
総督在任中に陸軍大臣・内務大臣・満州軍総参謀長を兼任
1904年陸軍大将
日露戦争に従軍
南満州鉄道創立委員長

後藤新平

後藤新平

医師、官僚、政治家(1857年-1929年)
仙台藩出身
台湾総督府民政長官
南満州鉄道(満鉄)初代総裁
逓信大臣、内務大臣、外務大臣
拓殖大学(元台湾協会学校)学長
東京市第7代市長

内地延長主義時代

1919年、初の文官総督として田健治郎が就任します。
田は「台湾での同化政策の推進」という基本方針を発表し同化政策を推進しました。

具体的には地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を行います。

1922年には、内地延長主義に基づき新たな台湾教育令を公布し、中学校以上での「日台共学」を認めます。1928年には7番目の帝国大学として台北帝国大学(現国立台湾大学)が創設されました。

就学格差(高等教育進学の人数制限など)はあったものの、中長期的な教育改革によって、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達します。同時に、経済的に裕福な台湾人子弟は日本など海外に留学し、若い知識人のエリート層が形成されていき、後の台湾民主化に大きく貢献する人材を多数輩出していきます。

その頃、台湾人は台湾統治に直接参加することはできず、日本化されていく現状を憂いていました。日本の差別政策と相まって民族自決の風潮が広がり、台湾議会を設置し台湾の独自性を確保すべきと主張する人たちが出てきます。

1921年には、林献堂を総理とした台湾文化協会が設立さます。「台湾文化の発展の助長を目的」とする講演会や映画上映などを各地で行い大衆啓蒙運動を展開しました。
これにより、同年に始まっている台湾議会設置請願運動という政治的な活動が台湾社会を奮発させていきます。

一方日本側は、1922年施行の法三号で、六三法や三一法で採られていた方針(台湾の特殊統治)とは異なり、内地の法律の全部又は一部を台湾に施行する原則(1条1項、内地延長主義)という方針を採りました。これは武力による支配から懐柔による統治への転換とされています。

このように、当初の武力衝突から政治的闘争へと変化を遂げていった台湾社会ではありますが、昭和に入り日本が右傾化してくると、大々的に左派運動の粛清が強化され、台湾共産党、台湾文化協会、台湾農民組合、台湾民衆党などの団体が次々と取り締まられてしまいます。

皇民化運動時代

日本が対外拡張を進めるなか、台湾では政府による統制が強化されていきます。

第17代総督小林躋造から武官総督が復活し、「台湾の南進基地化」政策を打ち出します。

1937年に日中戦争が勃発すると、戦争へ台湾住民を動員する必要から、総督府をはじめ地方政府や民間団体が「皇民化」運動を展開します。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動です。
この時期から多くの台湾人が軍夫、軍属として中国や東南アジアの戦地に送られていきます。

1941年、太平洋戦争が勃発すると、台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられ、軍需に対応すべく台湾の工業化がより一層推進されます。
また、戦争の拡大を受け、陸軍が原住民を募集して「高砂挺身報国隊」(高砂義勇隊)を編成し、戦場に送りました。

1942年には志願兵制度を導入し、1945年には徴兵制によって多くの台湾人が日本軍として戦地に投入されていきます。日本軍の軍人軍属となった台湾人は20万人以上、戦死者は3万人といわれています。

1945年、日本の敗戦により日本の台湾統治が事実上終了します。日本は1951年のサンフランシスコ講和条約によって台湾における権利、権限及び請求権を放棄し、施政権を喪失しました。

戦後台湾と民主化 1945年~1996年

台湾国旗
中華民国統治時代年表
  • 1945
    中華民国が台湾に進駐

    GHQの委託に基づき中華民国が10月15日台湾に進駐

  • 1947
    二・二八事件

    中華民国政権の腐敗に民衆が蜂起。武力弾圧で大量虐殺が発生
    中華民国憲法公布

  • 1948
    動員戡乱時期臨時条款を公布

    事実上憲法の諸制度を停止し、総統に権限を集中させる

  • 1949
    厳戒令施行

    その後38年間続く。国民党政権、首都を台北に変更

  • 1950
    蒋介石総統に就任(再任)

    その後亡くなるまで総統を務める

  • 1951
    サンフランシスコ講和条約調印

    日本が台湾の主権を放棄

  • 1952
    日華平和条約調印

    中華民国と日本の国交が成立

  • 1958
    金門島砲撃戦(八二三砲戦)

    中国人民解放軍が金門島に侵攻すべく砲撃を行ったことにより戦闘が起こる

  • 1971
    国際連合から脱退

    中華民国は国連安保理常任理事国の座を失い、中華人民共和国が国連安保理常任理事国と見なされ、抗議する形で国際連合を脱退

  • 1972
    日本と断交

    日中国交正常化で日本と中華民国は断交

  • 1978
    蒋経国が第6代総統に就任

    蒋介石は1975年に死亡

  • 1979
    アメリカと断交

    米華共同防衛条約が破棄されるが、アメリカは台湾関係法を制定
    美麗島事件発生。陳水扁、逮捕者の弁護団に参加

  • 1981
    鄧小平が台湾統一を提案

    「一国二制度」による台湾統一を主張
    李登輝が台湾省主席に就任、1984年には副総統に

  • 1986
    民主進歩党結成

    国民党に批判的な台湾初の野党が結成される。民主化改革を推進する

  • 1987
    厳戒令が解除される

  • 1988
    蔣経国死去、李登輝が総統に就任

    当時副総統であった李登輝が、本省人として初めて総統に就任

  • 1989
    政党結成禁止を解除

    戒厳令解除後初めての統一選挙で民主進歩党が躍進
    1994年陳水扁が台北市長に当選

  • 1991
    万年議員を廃止

    国民大会と立法院を解散し、全面改選を行う(立法委員選挙は1992年)

  • 1996
    初の総統直接選挙が行われる

    李登輝が当選。

中華民国憲法施行後の歴代総統

任期総統就任年月日
蒋介石1948年5月20日
李宗仁1949年1月21日(代理)
蒋介石1950年3月1日(復任)
蒋介石1954年5月20日
継承厳家淦1975年4月6日
蒋経国1978年5月20日
継承李登輝1988年1月13日
李登輝1990年5月20日

権威主義体制の確立

1945年8月15日、日本政府がポツダム宣言を受諾して降伏し終戦の詔書を発表し第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結すると、GHQの指示により台湾は中華民国による接収が行われることとなります。蔣介石は陳儀を台湾省行政長官に任命し、中華民国による台湾統治が始まります。

当初多くの台湾人が日本統治の終了を喜び、中華民国を歓迎していましたが、その後大きく失望することとなります。

専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日)
二・二八事件 専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日)

まず政治面では、圧政が敷かれ汚職がはびこり軍紀は乱れます。つぎに経済面では、政府が資本を独占し、中国本土攻勢のための物資を中国に大量に送る必要があったため、台湾の戦後復興が大きく阻害されます。さらに、日本統治時代に近代化され高度な教育を受けていた台湾人が、読み書きもできず水道や電気もまともに知らない中国人が支配する現実に不満を募らせていきます。

1947年、二・二八事件が起こると政権と民衆の抗争が全国に広まりました。政権側は話し合いの姿勢を見せて時間を稼いでいる間に、中国大陸から軍隊を呼び寄せ激しい武力弾圧を行います。

二・二八事件は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中国国民党政権(在台湾の中国人)による長期的な白色テロ、すなわち民衆(当時はまだ日本国籍を有していた台湾人と日本人)弾圧・虐殺の引き金となった事件。

1947年2月27日、台北市でタバコを販売<当時はタバコは専売制だったため密売にあたる>していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。台湾人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は中国から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。(中略)
この事件によって多くの台湾人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。犠牲者数については800人〜10万人まで様々な説があり、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。1992年、台湾の行政院は、事件の犠牲者数を1万8千〜2万8千人とする推計を公表している。

「二・二八事件」ウィキペディア<>括弧内は筆者が加筆

1947年12月25日に中華民国憲法(五権憲法)が施行されますが、共産党との内戦の都合で付属条項として「動員戡乱時期臨時条款」が公布され、内戦遂行に都合の悪い憲法上の諸制度を事実上停止させました。

さらに、1949年には台湾に厳戒令を敷き、その後38年間もの間継続されることになります。

中国共産党の浸透を恐れた蒋介石は、言論や表現の自由を大幅に制限し、白色テロと呼ばれる苛烈な弾圧をを行います。「中共のスパイを見逃すくらいなら冤罪が発生しても構わない」という姿勢で行われた検粛で、多くの冤罪、でっち上げ事件、異分子排除目的の逮捕が行われ、市民を恐怖に陥れていきます。
後に台湾の民主化を進めて本省人初の総統となる李登輝も、憲兵に連行された経験を持ち、「台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心した」と後年述べています。

中国共産党との戦いに敗れた蒋介石は、台湾において「党が政府を指導する」「党が軍を指導する」という方針で国民党の一党独裁体制を構築していきます。(蒋介石の死去にともない自動昇格した厳家淦を挟むものの実質的に世襲となった国民党政権は、北朝鮮をイメージさせます。)

このように権威主義体制を固める台湾に対し、後ろ盾であった米国が中華民国を支援しない姿勢に傾き、台湾が中国共産党に統一されるのも時間の問題とみられました。

しかし、1950年朝鮮戦争が勃発し、中華人民共和国(以下中国という)がソ連に接近すると、米国は一転軍事的に重要な台湾支援に舵を切ります。1954年に米華相互防衛条約が調印され、「反共政権」という理由で権威主義にもかかわらず民主主義陣営に組み込まれます。(表面的には総統選挙を行い民主主義を標榜していた。ちなみに北朝鮮も表面的には選挙を行っている)

米国の支援とその後のベトナム戦争による特需により大きく経済成長を遂げる台湾ですが、外交的には徐々に孤立していきます。中国が大陸を支配している現状を踏まえ、国際社会は中国と国交を結ぶなどの行動に出ます。この時蒋介石政権は「漢賊並び立たず」といって、中国が偽の政権で中華民国こそが正当な中国であると強硬に主張し孤立化が進んでいきました。

また米国はソ連との冷戦関係においてソ連に対抗すべく中国を取り込みにかかります。国連では戦勝国の地位が中華人民共和国に移され、1971年に中華民国は国連を脱退します。

翌1972年には日中共同声明が出され、日本は台湾と断交します。さらに1979年には米中国交正常化が行われ米国とも断交となります。ただし、米国は国内法として「台湾関係法」を制定し、米国のプレゼンスを繋ぎとめた形になりました。これは、中国を取り込むために表面上は台湾と断交するが、実質的にはこれまで通り付き合うという「あいまい戦略」と言われています。

このような外交環境の変化に伴い、米国の後ろ盾を背景に台湾人を抑圧してきた国民党政権は、国内的にも弱体化し始めていきます。

台湾関係法の要旨
  • 米国民と台湾人民間の通商、文化その他の諸関係の継続を承認する
  • 防御的な性格の兵器を台湾に供給する
  • 台湾のすべての人民の人権の維持と向上が、合衆国の目標であることをここに再び宣言する
  • 合衆国は、十分な自衛能力の維持を可能ならしめるに必要な数量の防御的な器材および役務を台湾に供与する
  • 大統領は、台湾人民の安全や社会、経済制度に対するいかなる脅威ならびにこれによる米国の利益に対する危険についても、直ちに議会に通告する。大統領と議会は、この種のいかなる危険にも対抗するため適切な行動決定しなけれぱならない。
  • 外交関係と承認がなくても合衆国の法律の台湾への適用には影響を及ぼさず、また合衆国の法律は1979年1月1日以前と同様に台湾に適用されなければならない。

蒋介石

蒋介石

中華民国の政治家、軍人(1887年-1975年)
初代~5代中華民国総統
中国国民党永久総裁
保定陸軍軍官学校で軍事教育を受けた後、東京振武学校へ留学
大日本帝国陸軍に勤務
辛亥革命に参加し、孫文に認められる
孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる
国共内戦で敗北し台湾に渡る。台湾では蒋中正の名称が一般的
Photo:Office of the President of the Republic of China, Attribution, via Wikimedia Commons

民主化の流れ

ここからは台湾の民主化の歴史に焦点をあてて説明します。

いったん時間を1950年前後に少し巻き戻します。

蒋介石政権は、国際社会の支持を得るため表面的には民主主義を標榜し、実際には権威主義体制を敷いていたことは先に述べましたが、これは次のようなことからも伺えます。

  • 地方自治においては1950年から選挙が行われており、少数ではあるものの国民党以外(党外と呼んでいた)の政治家が当選している
  • 中央においては、第1期の立法委員・監察委員・国民大会代表の改選を停止し、「万年議員」として現体制の維持を強行に堅持した

つまり、中央政府は権威主義の一党独裁とし、地方については選挙を実施し民主主義の体を取ったということです。

1950年代、雷震が雑誌『自由中国』で地方自治、基本的人権の保障、野党結成などを訴えるなど、民主化の声は常に台湾に存在していました。

1969年には、人口増加と万年議員の欠員を理由に国会議員増加定員選挙を行います。これによって、僅かではあるが、「台湾人」が中央政府に参画することができるようになると、徐々に「党外」勢力を形成していきます。

そのような中で1978年、米国との断交で政局の混乱を恐れた政府(蒋経国総統)が、実施中であった国会議員増加定員選挙の延期と選挙活動を停止しました。選挙が奪われた党外勢力は政論雑誌などで影響を広めることになります。このとき創刊した雑誌『美麗島』のメンバーが高雄でデモを行うと、治安部隊と激しく衝突し、その後政府は多くの党外活動家を逮捕しました。(美麗島事件
『美麗島』創刊者の黄信介などは叛乱罪で起訴されますが、その時の被告と弁護団には後に結成される民進党の幹部が多く含まれています。(民進党初の総統になる陳水扁はこのとき弁護団に参加しています)

美麗島事件(びれいとうじけん、高雄事件とも称す)は、1979年12月、世界人権デーに中華民国高雄市で行われた雑誌『美麗島』主催のデモ活動が、警官と衝突し、主催者らが投獄されるなどの言論弾圧に遭った事件である。台湾の民主化に大きな影響を与え、今日の議会制民主主義や台湾本土化へと繋がった。

「美麗島事件」ウィキペディア

1980年代になると、党外勢力が政党結成禁止政策の打破を目指します。

1986年には民進党(民主進歩党)が結成されました。
蒋経国総統は、「野党結党を認めないが取り締まりもしない」と黙認すると、その後複数の政党が多数乱立していきます。

ここまでくるともはや民主化の流れを抑え込むことは困難で、蒋経国はこれまでの独裁体制を転換して1987年には厳戒令を解除し、国民党を世襲しない旨宣言します。

1988年に蒋経国が死去すると、当時副総統であった李登輝が憲法の規定に基づき総統になります。李登輝は1989年に政党結成を許可し民主改革を進めます。

選挙による総統就任ではないものの、初の本省人総統となった李登輝は、国民党内の反対や政治闘争に苦しみながらも国是会議(超党派の会議)を招集し、憲法改革、万年議員の解消など次々と改革を実施します。1991年には「反乱懲治条例」が廃止され、翌年刑法第100条が改正されると、「暴力」や「脅迫」の手段が用いられない限り、「意図」や「言論」だけでは反乱罪を構成できなくなり、思想、言論の自由が保障(台湾の歴史P183)されるようになりました。

1996年、初の総統直接選挙が実施され、国民党の李登輝が当選します。
こうして台湾人は初めて民主的に国の代表を選び、名実ともに民主国家となりました。

野百合学生運動

厳戒令解除後の1990年3月16日~22日、国民党による専制政治の改革を求め、中正紀念堂広場に座り込みを行い、「国民大会解散」、「臨時条款廃止」、「国是会議開催」、「政治経済改革時間表提出」(四大要求)を訴えた。これが報道されると支援者が続々と集結し、最終的には学生約6,000人が参加する大規模デモとなった。(蒋経国の死去に伴う自動昇格で総統になった)李登輝が国民大会で選挙によって総統になったのは、正にデモの最中の3月21日であった。総統に当選した李登輝は、すぐに学生の代表を総統府へ招き彼らの意見に耳を傾けた。後に国是会議を開催した際、李登輝は学生の要求に従ったわけではなく、あくまでも総統の意思で開催すると言ったが、結果として学生たちの訴えが実現したことになる。

蒋経国

蒋経国

中華民国の政治家(1910年-1988年)
第6・7代中華民国総統
浙江省出身。蔣介石、毛福梅夫婦の長男として生まれる
父に反抗しソビエト連邦に留学
その後父蒋介石に呼び寄せられるが、国共内戦敗北で蒋介石とともに台湾に渡る
台湾では軍の政治工作部門を任され長年政治の裏側で強力な権力を握る
蒋介石の死後現実路線となり、厳戒令を解除し権力の世襲を否定した
Photo:National Assembly, Attribution, via Wikimedia Commons

李登輝

李登輝

中華民国の政治家(1923年-2020年)
第8・9代中華民国総統
台北州(現在の新北市)出身
台北高等学校卒業後京都帝国大学農学部に進学、学徒出陣で日本軍として出征。陸軍少尉
戦後台湾に帰国し台湾大学に編入学し、後年アメリカに留学
国民党入党後、行政委員長、台北市長などを歴任し副総統に就任
1988年蒋経国の死去により総統に就任
権力闘争に苦しめられながらも国民党を掌握すると、民主化を推し進め、台湾発の総統直接選挙を実施し当選する
Photo:National Assembly, Attribution, via Wikimedia Commons

台湾の民主政治と2大政党 1996年~

台北市街
台湾民主化後の年表
  • 1996
    国民の直接選挙によって民主化を実現

    国民党の一等独裁体制が消滅

  • 1999
    李登輝が台中関係を「特殊な国と国の関係」と定義

    『台湾が中国の一部』とする中国の主張を否定

  • 2000
    陳水扁が総統選に当選

    台湾発の政権交代が実現し民進党が与党に
    中国が台湾白書を発表し、台湾統一に武力行使も辞さない姿勢を表明

  • 2008
    国民党の馬英九が総統選に当選

    対中宥和策を強化

  • 2014
    ひまわり学生運動が起こる

    「サービス貿易協定」の不当な審議に抗議した学生達が立法院を占拠
    蔡英文ら民進党議員は武力闘争にならないよう、警察と学生の間に立つ

  • 2016
    民進党の蔡英文が総統選に当選

    民進党が政権を奪還

  • 2020
    蔡英文が総統選で再選を果たす

直接総統選挙後の台湾総統

任期総統政党就任年月日
李登輝中国国民党エンブレム国民党1996年5月20日
10陳水扁民主進歩党エンブレム民進党2000年5月20日
11
12馬英九中国国民党エンブレム国民党2008年5月20日
13
14蔡英文民主進歩党エンブレム民進党2016年5月20日
15
民進党エンブレム:Democratic Progressive Party, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

李登輝時代

初の本省人総統となった李登輝の本当の仕事はこれからでした。それは李登輝の言葉を借りれば「台湾化」という大きな仕事です。

中華民国の様々な体制は、いずれ中国全土を統一する(または中国全土を統治している)という目的で構成されていたため、現実に対応していないことが沢山あり、これを現実(台湾のみを統治している)に合わせる必要がありました。

しかし、総統就任当初の李登輝の政治基盤は極めて脆弱で、外省人エリート層を敵に回し少しでもバランスを崩せば、李登輝政権は直ちに崩壊しかねない状況でした。李登輝は低姿勢で時にはしたたかに国民党内の支持を固めていき、改革を着実に進めていきます。

李登輝は国是会議を開き、党外の意見(広く民衆の意見)を反映させるという形で憲法修正などの改革をリードします。

最初に行ったのは「動員戡乱時期臨時条款」の廃止です。これによって長年続いていた中国との交戦状態(という建前)を終了させます。これは中華人民共和国を認めるという側面もあり、同時に台湾と中国が別物であるということも暗に含んでいます。また、第三次憲法改正の中で総統直接選挙制を導入します。

「動員戡乱時期臨時条款」の廃止は単に現状を追認したというだけでなく、「動員戡乱時期臨時条款」によって停止あるいは制限を受けていた憲法が本来の姿に戻ることになります。そうすると、長年停止されていた国民大会の改選も行われなくてはならず、万年議員問題がこれで合法的に解消されることになります。

さらに、1996年には与野党はじめ各界の有識者を集めて「国家発展会議」を開き、1997年長年懸案となっていた「台湾省」(中国の台湾省という扱い)を廃止します。これによって名実ともに中国とは関わりのない台湾となりました。

このように、法に基づきときには法を巧みに利用して、旧体制の改革を進めました。

二大政党時代

国民党と民進党

【中国国民党】
1919年10月10日、孫文が中華革命党を改組して結党した
中華民国による中国統一を目指す政党
ただし、現在は民心が離れるのを恐れて「統一」ではなく「交流拡大」というスタンスをとっている

【民主進歩党】
1986年、国民党に批判的な勢力(いわゆる「党外」)が結集して設立した台湾史上初の野党
主権の独立した自律的な台湾共和国の創設を目指す政党
ただし、2023年1月現在は「現状維持」政策をとっている

1989年に政党結成が認められると、たくさんの政党が結成されます。2022年1月22日現在で正式に登記されている政党は112個(台湾を知るための72章P68)あるそうです。解散したものや廃止予定のものを含めると373個あるとのことで、人口約2300万人の台湾でこれだけ多くの政党ができたのは、政治への発言権の渇望がそれほど大きかったということが言えます。

その中でも、1986年に結党した民主進歩党(民進党)は、国民党に次ぐ勢力として党勢を拡大していきます。

民進党は地方議員を着実に増やしていき、1994年には陳水扁が台北市長に当選します。
2000年に行われた2回目の総統直接選挙では、陳水扁が総統に就任し、台湾発の民主的な政権交代が実現しました。
さらに2001年には、立法委員選挙(国会議員)では第1党となり、名実ともに2大政党となります。

一方国民党は、2008年の総統選挙で馬英九が当選し、政権を取り戻します。
馬英九は、台中関係の改善と経済対策を優先し、台湾企業の中国進出を緩和するなど台湾経済の回復を進め高い支持を得ます。2015年には1949年の台中分断後初となる台中首脳会談(中国は習近平)を行いました。
しかし、中国寄りな政策や立法院での横暴な審議打ち切りなどに反発した学生などが大規模なデモ活動(2014年:太陽花学生運動)が行われるなど国民の反感を買うことになります。一時期馬政権の支持率は10%前後にまで落ち込みます。

太陽花学生運動後、国民党政権に批判が集まる中、民進党は直轄市長選挙など主要な首長選挙で国民党を制し躍進します。
こうした流れの中、2016年の総統選挙では蔡英文が国民党の朱立倫候補を大差で退け、政権を奪取します。
蔡英文政権は、新型コロナウイルス対策などで世界的な評価を受ける一方、対米・対日重視の外交姿勢により中国からは圧力が強く、台湾有事が懸念される現在において第二のウクライナにならないために、国際社会での存在感向上に努めています。

太陽花学生運動(ひまわり学生運動)

2014年3月18日に、台湾の学生と市民らが立法院(国会)を占拠した学生運動。
台中間のサービス分野の市場開放を目指す「サービス貿易協定」の批准に向けた審議を国民党側が一方的に打ち切ったことに端を発して、サービス貿易協定に反対するデモ活動が行われ、同日午後9時過ぎ、300名超の学生達が立法院議場内に進入した。このとき野党民進党などもデモに参加し、学生に武力が振るわれないよう盾の役割を果たすなどの活動を行う。デモは学生にとどまらず市民に広がり、社会に大きな影響を与えた。香港の雨傘運動も太陽花学生運動に影響を受けていると言われている。

陳水扁

陳水扁

中華民国の政治家(1950年-)
第10・11代中華民国総統
台南市出身
台湾大学法学部3年生のときに国家司法試験にトップ合格
美麗島事件の被告弁護団に参加
その後政界に進出し、台北市議会議員となる
民主進歩党に入党し立法委員に当選
2000年の総統選挙で当選し、民進党初の総統となる
著書:「台湾之子」
Photo:National Assembly, Attribution, via Wikimedia Commons

馬英九

馬英九

中華民国の政治家(1950年-)
第12・13代台湾総統
香港で出生し生後間もない1950年に台湾に移住し台北で育つ
国立台湾大学卒業後ニューヨーク大学、ハーバード大学に留学
帰国後は政府内でキャリアを積み、1998年台北市長選で当選
2005年に国民党主席に就任
2008年総統選挙に当選し、民進党から政権を奪取する
Photo:Office of the President, Republic of China, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

蔡英文

蔡英文

中華民国の政治家(1956-)
第14・15代中華民国総統
台北市出身
国立台湾大学卒業後、米コーネル大学、英LSEに留学
帰国後大学教授に就任
行政委員としてキャリアを積み、2004年に民進党に入党、立法委員に当選
2008年民進党主席に就任し、2012年の総統選に出馬するも落選し党主席を辞任
2014年再び党主席に選出され、2016年の総統選に当選する
著書:「蔡英文 新時代の台湾へ」
Photo:Office of the President of the Republic of China, Attribution, via Wikimedia Commons

おわりに

日本に一番近いのに、意外と日本人が知らない台湾の歴史(政権と政治家)について紹介しました。
政権と政治家をテーマにしたため、他のことは大部分カットされた概略史になっていることはご容赦ください。テーマの分かりやすさを優先しました。

長年外来政権による支配が続いた台湾が、今ではアジアのTOPと言っていい民主主義体制を実現し、大きく発展していることは注目に値します。

私が初めて台湾を訪れたのは2014年でした。その時の台北は近代的なビルと昭和の日本のような路地裏が同居する魅力的な街という印象でした。その後、仕事とプライベートで何十回も台湾を訪問し、台湾人とも多く交流しました。

私が台湾について勉強するようになったのは、仕事で台湾と関わるにあたり台湾をよく理解しようというのがきっかけです。そんな中で蔡焜燦さんの息子さんに仕事でお世話になる機会があり(はじめは全然知らず、何度も飲みに連れて行っていただいた中で教えていただきました)、「台湾人と日本精神」という蔡焜燦さんの本を紹介され、一気に台湾をより理解しようと思ったことを覚えています。

その後転職したことやコロナで暫く台湾に行く機会がありませんでしたが、昨今のウクライナ戦争に端を発する台湾有事に注目が集まる中、今一度台湾をよく理解するべく本記事を執筆しました。

いざ執筆するとなると、うろ覚えの知識と記憶では満足な文章が書けないため、本棚にある台湾の本を引っ張り出しては確認し、ネット情報も併せて裏取り確認を行うなど、結構時間がかかりました。

この記事が誰かに読まれ、台湾に対する認識が一つでも広がれば幸いです。

なお、本文中に間違い等があればやさしくご指摘いただければ助かります。

2023年1月11日

参考文献

薛化元主編、永山英樹訳.「詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書」.雄山閣,2020.
藤井厳喜、林建良著.「Seeing Taiwan,Understanding the World 台湾を知ると世界が見える」.ダイレクト出版,2019.
赤松美和子、若松大祐編著.「台湾を知るための72章【第2版】」.明石書店,2022.
酒井亨.「台湾入門」.日中出版,2001
蔡英文著、前原志保監訳、阿部由理香、篠原翔吾、津村あおい訳.「蔡英文 新時代の台湾へ」.白水社,2016.
陳水扁著、及川朋子、山口雪奈、永井江理子、本間美穂、松本さち子訳.「台湾之子」.毎日新聞社,2000.
加瀬英明.「日本と台湾」.祥伝社,2022
李登輝、小林よしのり著「李登輝学校の教え」.小学館文庫,2003
正木義也.「台湾の悲劇」.総合法令出版株式会社,2000
井尻秀憲.「李登輝の実践哲学ー五十時間の対話ー」.ミネルヴァ書房,2008
蔡焜燦.「台湾人と日本精神 日本人よ胸を張りなさい」.日本教文社,2000
小島克久.「第2次世界大戦以前の台湾の人口変動と日本との比較検討」.国立社会保障・実行問題研究所,2017.https://www.ipss.go.jp/publication/e/jinkomon/pdf/17730403.pdf(参照2023-01-08)
台湾(Taiwan)基礎データ.外務省https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taiwan/data.html(参照2023-01-05)
CONGRESS.GOV「HR2479-Taiwan Relations Act」.The Library of Congresshttpshttps://www.congress.gov/bill/96th-congress/house-bill/2479
TaiwanRelationsAct.pdf「台湾関係法」.日本李登輝友の会http://www.ritouki.jp/wp-content/uploads/2015/01/TaiwanRelationsAct.pdf(参照2023-01-08)
小笠原欣幸.「台湾の民主化と憲法改正問題」.東京外国語大学http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/paper/paper2.html(参照2023-01-09)
台灣民主化之路 李登輝(日文字幕).TTV台視新聞節目,2020https://www.youtube.com/watch?v=RgT9GaOnfQ8(参照2023-01-09)
ウィキペディア.「台湾」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE#%E8%A8%80%E8%AA%9E
(参照2023-01-05)
ウィキペディア.「日本統治時代の台湾」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE(参照2023-01-05)
ウィキペディア.「台湾史年表」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8(参照2023-01-06)

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