アメリカが超大国になる1900年代はアメリカ史の中でもハイライトの一つです。
アメリカの歴史をアメリカ目線で見るために、アメリカの小学生が学んでいる歴史を参考に解説します。
アメリカ発見~植民地時代 ~1775年
独立戦争と新国家建設時代 1775年~1800年代
南北戦争と南部再建時代 1800年代
西部開拓時代 1800年代頃
第一次世界大戦と大恐慌時代 1900年頃~1939年
第二次世界大戦と冷戦時代 1939年~1990年
冷戦後の新時代のアメリカ 1990年~
第一次世界大戦
1900年初頭の世界
大戦前夜の世界は、「列強」が台頭し世界中に植民地を建設するなど、覇権を争っていました。
そのような競争の中、列強は「同盟」や「協商」を結んで、お互いを牽制するようになります。
アメリカはこうした植民地主義に反対の立場でした。
(アメリカ自身も広大な北アメリカ大陸をどんどん領土とし、資源を貪り、先住民を殺害したり追い出したりしたので、大きなことは言えません。)
サラエボ事件
ウィキペディア「第一次世界大戦」より
1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件
第一次世界大戦の勃発
1914年に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパ諸国による戦争でしたが、これがアメリカを大国の地位に押し上げるきっかけになりました。
最初は、イギリス・フランスなどの協商国とドイツなどの同盟国の戦いがきっかけで、アメリカは中立を保っていました。
しかし戦火は次第に広がり、それまでの歴史上最も多くの兵士が死ぬことになります。
(人間自然科学研究所が作成した資料によれば、両陣営合わせて850万人以上が戦死したとされています)
1900年前後に工業化した世界では、様々な兵器が開発され、蒸気船や鉄道の発達で、皮肉にも大規模な戦闘になる要因ともなりました。
第一次世界大戦では、飛行機や戦車が初めて使われたのですが、当時はまだそれほど戦力にはならず、むしろ機関銃や毒ガスが多くの命を奪ったのです。
強力な武器を持った両軍が向かい合うと、簡単に進軍できずに膠着状態が続きます。
両陣営とも仲間を増やし戦況が有利になるように、時には勝利後の領土を約束するなどして他国の参戦を促します。
その結果多くの国が参戦し、戦場が拡大していきました。
アメリカ参戦
多くのアメリカ人は中立を支持しました。遠いヨーロッパの争いに参加する必要はないと考えていたからです。ただし心境的にはイギリス・フランス寄りだったそうです。
そんなアメリカをヨーロッパの戦争に参加させたのは、二つの出来事があったからだと言われています。
・ルシタニア号沈没事件
・ドイツからメキシコへの密約電報
ルシタニア号は客船で、ニューヨークからイギリスに向かう途中にドイツの潜水艦Uボートから発射された魚雷によって沈められました。1000人以上の犠牲者は民間人で、内米国人128人が含まれていたこともあって、アメリカの人々は激怒します。
当時ドイツはイギリスなどの敵国を苦しめるために、大西洋で軍艦も民間船も構わず攻撃していたのです。
しかし、この時点ではまだアメリカは参戦を決めていません。
アメリカ国内でドイツに対する敵意が充満していた時に次の事件が起こります。
ドイツはメキシコに対して、同盟国側について戦争に参加すれば、米西戦争で失った領土奪還を助けるという密約電報を送ったのです。
これが発覚すると、いよいよアメリカも忍耐の限界を迎え、1917年4月、ウィルソン大統領は議会にドイツとの戦争を宣言するよう求めました。
アメリカの参戦は膠着したヨーロッパ戦線を転換させ、疲弊したドイツは連合国側に和平を申し入れ、1918年11月に停戦します。
正式な終戦は1919年6月28日に行われたヴェルサイユ条約の調印です。
この条約で、ドイツには多額の賠償金を課されました。
翌1920年にはウィルソン大統領が提唱した国際連盟が創設され、これによって今後は大きな戦争が起こらないだろうと期待されました。
しかし、当のアメリカ国民は、自分たちの行動を他国に相談するような枠組みには同意せず、また遠い国の争いに関与したくないという考え方もあり、結局アメリカ議会(上院)の否決によって国際連盟に加入しませんでした。
トマス・ウッドロー・ウィルソン
政治家、政治学者(1856年-1924年)
第28代アメリカ合衆国大統領
ニュージャージー州知事
プリンストン大学総長
Photo:Harris & Ewing, Public domain, via Wikimedia Commons
アメリカの孤立主義
アメリカの孤立主義は戦争に参加しないというだけではありませんでした。移民制限もその一つです。
元々移民とその子孫で構成されていたアメリカでしたが、この頃には増加する移民を制限する法律を制定し、異なる宗教や政治思想を持った人たちが入ってくることを防ぐようになります。
南北戦争直後に結成された有名なクー・クラッスク・クラン(KKK)が再び復活し、黒人のみならずカトリック教徒やユダヤ教徒も襲撃していました。
このように1920年代は、少数民族にとって困難な時代となります。
アメリカは移民によって建国された国ですが、その移民は何もない原野に降り立ち、一から開拓した人たちです。その子孫であるアメリカ人は、アメリカが発展してから国境を越えて来る移民たちが、苦労せずにアメリカ人になることに強い反発を感じています。祖先が血と汗と涙で築き上げたアメリカにフリーライドされるような気持になるのです。
狂乱の1920年代と大恐慌
好景気に沸くアメリカ
1920年代のアメリカは空前の好景気で沸いていました。若者がこれまでの行動規範を打ち破る時代にもなります。
1920年に禁酒法が始まったアメリカですが、意に反して若者は酒を飲み、音楽を鳴らし、踊りました。
それまで人前でお酒を飲まなかった女性たちも酒場(スピークイージーというもぐりの酒場)にでかけ、新しいファッションに身を包み、楽しく気ままに振舞うようになっていきます。
また、1920年にラジオ放送がはじまり、映画界ではチャップリンが登場するなど、大衆娯楽が大きく花を咲かせました。
【T型フォード】
1908年にヘンリー・フォードがT型フォードという画期的な自動車を生産します。何が画期的だったかというと、作りはしっかりしているのに安かったからです。それまでの自動車は超高級品で一般人が買えるものではありませんでした。フォード・システムと呼ばれるコンベア生産方式によって効率的に生産することにって、早く安く売ることができるようになりました。
1920年代の終わりには、自動車産業が大量の雇用を支える大産業になっていました。
Picture:「1910年式T型フォード」Harry Shipler, Public domain, via Wikimedia Commons
一方、好景気を背景に北部では新しい産業が人手不足になってきます。
しかし移民を制限したせいで、これまでのように国外から労働者が入ってこないため、南部の農場などで働いていたアフリカ系アメリカ人達がよりよい生活を求めて移住してくるようになります。
彼らの多くはシカゴやニューヨークに移動し、ニューヨークでは郊外のハーレムという地に住むようになります。このことがその後ハーレムが黒人文化の中心地になることに繋がります。
大恐慌時代
1930年代は一転して経済の困窮と貧困が拡大する大変な時代になりました。
1920年代の好景気時代には、冷蔵庫や自動車などの便利なものが次々生産され、人々の収入もどんどん上がっていく時代でしたので、消費が一気に拡大していました。
この頃から「分割払い」という制度が広がり、多くの人が高額な商品を変えるようになります。
また、好景気により企業業績が良くなると株価も上昇することから、株式投資がブームになり、「信用取引」といって、お金を借りてまで株を買うような投機を行うようになっていきます。現代でいうバブル状態と言えます。
しかし、このような状況がいつまでも続くわけはなく終わりが来ます。
1929年10月、過剰に高騰していた株価は急激に下落したのをきっかけに、慌てた多くの人たちが株を売ろうとしたので、益々株価は急落していきました。(1929年の大暴落)
信用取引をしていた人は大きな借金を抱え、そうでない人も財産を一瞬にして失い、1930年には多くの破産者が出てしまいます。
これによって、これまで大量消費に支えられていた企業もモノが売れなくなり、多くの企業や銀行が倒産し、失業者が街に溢れます。(この当時はまだ連邦預金保険公社(FDIC)は存在せず、銀行が破綻しても預金が保護されませんでした)
1932年の年末時点で、アメリカ人労働者の実に25%が失業していました。
ダスト・ボウル
この頃のアメリカにさらに危機が発生します。
1930年代中頃に、グレートプレーンズと呼ばれるアメリカ中西部の大平原で、度々厳しい干ばつが発生します。この地域ではすさまじい砂嵐が発生し、何もかも砂に埋もれてしまいました。
この一帯はアメリカの食糧庫となっていましたが、雨が降らず牧草や穀物が枯れてしまい、牧畜や農業が壊滅してしまいました。
ここで生計を立てていた多くの人たちが、カリフォルニアなどに逃れ、そこで低賃金で働かざるを得なくなります。
当初は社会保障法が制定されておらず、彼らは中世の農奴のような生活を強いられることになります。
ニューディール政策
1933年、フランクリン・ローズベルトは大統領就任にあたり、この恐慌に立ち向かうことを宣言します。失業対策として公共事業を行い、多くの失業者が仕事に就けるような政策を実行します。
最初の計画の一つであるCCC(Civil Conservation Corps)は多くの若者を採用し、環境保全の仕事に従事させます。
当時、大企業が都市部の木材需要のために森林を好きなだけ伐採し放置したり、鉱業会社が山肌を削り汚染された川や荒れ地を作っても取り締まれませんでした。
これまでのアメリカは基本的に民間の活動に政府が介入すべきではない「レッセ・フェール(自由放任)」という考え方でしたので、民間企業の活動を制限したり規制したりする法律が少なかったのです。
ローズベルト大統領は、民間の自由な活動は大切だと考えながらも、行き過ぎた行動を政府が監督すべきだと考えたのです。
また、政府の資金で多くの橋、発電所、学校などの公共施設が建設され、芸術家たちにも援助し、多くの雇用を創出しました。
そしてニューディール政策で最も重要な事業は社会保障制度の整備です。
それまでのアメリカでは、失業したり高齢で働けなくなっても何の保障もありませんでした。
一部慈善団体などはありましたが、基本的に人に頼るのは恥ずかしいことであると考え、自分の身は自分で何とかするというのがアメリカ人の基本的な考え方でした。
大恐慌や大干ばつで多くの失業者や破産者が発生し、街には路上生活者が溢れていた1935年、議会は社会保障法を制定し失業保険や年金制度ができます。
これで、失業したりしても最低限生活できるようになりましたし、自分たちが保険料を払うことから、誰かに施してもらうという恥ずかしさもなくなりました。
フランクリン・デラノ・ロースベルト
政治家(1882年-1945年)
第32代アメリカ合衆国大統領
ニューヨーク州知事
海軍次官補
ニューヨーク上院議員
Photo:Photograph: Leon A. Perskiedigitization: FDR Presidential Library & Museum, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
まとめ
1900年代の初頭は、アメリカにとって激動の時代でした。
初めての大戦に勝利したアメリカでしたが、熱狂的な好景気から一転して大恐慌に陥ります。正に天国から地獄のような有様です。
これを契機に、ごくごく小さな政府を志向していたアメリカが、国全体を運営する体制に切り替わっていきました。
第一次世界大戦は戦闘での勝利だけでなく、アメリカを債権国に転換しました。特にヨーロッパ各国に資金を提供し、貿易も拡大していたことから、経済面でもアメリカが世界の中心となります。
しかし、第一次世界大戦はヨーロッパに深刻なダメージを与え、その後の大恐慌が追い打ちをかけるように経済を痛めつけました。これが後の第二次世界大戦につながっていきます。
James M.Vardaman,Jr、村田薫(編).「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」.ジャパンブック,2005
James West Davidson(著)、上杉隼人、下田明子(訳).「若い読者のためのアメリカ史」.すばる舎,2018
富田虎男、鵜月裕典、佐藤円(編著).「アメリカの歴史を知るための65章【第4版】」.明石書店,2022
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